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第二十話 約束のハンカチーフ
「遠慮は要りません。全て受け入れる覚悟はできています」
ヒイラギさんにオレの苛立ちが伝わっていたのか、それとも紫陽花との話を聞いていたのかは分からない。だけどアイリスの事を言っているのは分かる。
「今更そんな事を言えるくせに、なんでアイリスを守ってくれなかったんですか?」
「……花魁や他の従業員への暴力行為と揚代の未払いは厳しく取り締まってきた。彼らが嫌がる行為の強要も許していない。これは勿論、アイリスに対しても例外ではありません。逆も然り、花魁からお客様に対しての暴力行為等も一部の例外を覗いて禁じています。ですがどのようにお客様を楽しませるのかは花魁に一任しており、アイリスは自ら、特に過激な行為を売りにしていました」
「でも望んでやっているわけじゃなかった」
「あれは自傷行為でした。分かっていても、止める事はできなかった。止めた方が良いと気付いた時にはもう……僕の言葉は勿論、誰の言葉にも耳を貸してくれなかった。他の子達と平等に扱うことばかりを考えた僕は、菖蒲……アイリスに取り返しのつかない事をした」
今にも泣きそうな、悲痛な声だった。けれどオレはから目を逸して俯いたりはしない。唇を噛んでオレを見ていた。
「紫陽花がアイリスにした事も分かっていますか?」
「水揚げの件は存じております。あの時は、アイリスを初めて見世に出すまでの時間がもう無かった。アイリスの合意が得られないまま、強引に事を進めたのは僕の指示です」
「どうして……そこまでしてアイリスを売りたかったんですか? アイリスの気持ちよりも金が大事だった? 一刻も早く借金を返済させたかった?」
ヒイラギさんはふるふると首を横に振った。
「十六歳未満で華乱に入った者は十八才になった翌日から見世に出る。アイリスだけを例外にする事は、他の子達に対して不平等で不誠実な事だと考えています。その考えは今でも変わっていません。久弥は僕の意図を汲んでくれていました」
許せはしないが理解はできた。要するに重視したものが違うのだ。彼は私情よりも「長としての役割」を優先させた人達だ。そして紫陽花はそれに同意した。過ぎた事にこれ以上何かを言ったところで何も解決しないし、過去は変わらない。
「もう充分です。分かりました」
「ですが……」
「オレが聞きたい事はもう無いです。その代わり、もう二度と、他の人達にアイリスみたいな思いをさせないと約束してください」
「約束します。たとえ代替わりしても、引き継いだ楼主に必ず守らせます」
ヒイラギさんの言葉を聞いて、オレは立ち上がった。もうここに用はない。
「お時間くださり、ありがとうございました」
「お見送り致します」
紫陽花が立ち、障子戸を開けた。
「結構です。帰ります」
「ですが、出口は反対方向で御座います」
ついうっかり間違えた。というより、行きは後ろを着いて来たから良いが、意外と部屋までが遠く、分かりづらい。仕方なく紫陽花に見送りを頼む。
「こちらが玄関です。入った時同様、裏口で御座います。此処から壁沿いに左手側に進まれますと正面出入り口になります。営業中ですので、お時間があれば是非、帰る前に見世の様子をご覧くださいませ」
玄関の戸が開くと、威勢の良い呼び込みの声が聞こえてくる。
「ありがとうございます。それでは、さよなら」
「こちらこそ、ありがとう御座いました。色々と……」
紫陽花は深々と頭を下げた。会った当初の優雅な一礼ではない。
「貴方のような方に会えて良かった。心から感謝しています」
紫陽花は初めて腫れた自分の頬に触れた。
「どういう意味ですか?」
「菖蒲は貴方に出逢い、愛されている。私のした事は正しくはなくても、間違っていなかった」
「は?」
「アイリスに伝えていただけますか? 『お前に絶望を与えたのも暴行したのも、上級花魁の紫陽花であり、光城久弥という人間だった』と」
「必要ない。アイリスはお前達の事を忘れるくらいオレが幸せにするから」
そう返事をすると、紫陽花は今まで見た隙のない接客用の笑顔とは違う、晴れやかな笑みを見せた。
「死んでも許さないけど、もう憎まれ役はお役御免だよ。ユキヤ」
「……ありがとう御座います」
「その頬、これを水で濡らして冷やすと良い」
「いえ、お気遣いなく。自分の手拭いがあります」
「駄目。受けって。返しに来なくていい。その代わりまた誰かを傷付けたら殴りに来るから」
ユキヤはやっとオレのハンカチーフを受け取った。
「ありがとう御座います。大切にします」
「じゃあ、さよなら」
「ええ、さようなら。ルーカスさん」
オレはユキヤに背を向けて、アイリスの待つ家に向かって歩いた。
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