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第二十二話 アイリスの変化

 遠慮がちに肩を揺すられて目を覚ました。もう朝だろうか。それとも昼になったか。分からないが、いつもよりも体が重く、ぼんやりしていた。隙間風が剥き出しの素肌を冷やす。 「おはようルーカス。今日もお前の方が早かったな」 「ううん、オレは寝てない。寝たらきっと間に合わなくなっちゃう」 「ああ、そうか……」 「あまり寝かせてあげられなくてごめんなさい。お昼過ぎには出国したいから」  ぼんやりしていた意識が次第にはっきりしてくる。少し怠い体を起こし、軽く頭を振った。 「ルーカスは寝なくて平気なのか?」 「うん。寝ないのは慣れてる」  その言葉は嘘ではないのだろう。いつもの朝のルーカスよりもはきはきと喋っている。 「荷物運びとか挨拶とか、できれば正午前に済ませてほしい。何か手伝う事ある? 家はどうするの?」 「いや、特に何も。元から大した荷物も大事な物も無いし、世話になった食事処への挨拶は昨日済ませたし。この家の事はもう人に任せてある」  と言ってから、用事を一つ思い付いた。 「後でちょっと出掛けてくる」 「どこ行くの?」 「薫達の店を手伝ってる奴のとこ」  答えてから硯と筆、そして紙を取り出して墨をする。後ろからルーカスが覗き込んでいるのが見なくても分かった。墨の液が適当な濃さになってから紙に筆を走らせる。 「アイリスの字、お手本みたい」 「禿時代に嫌と言うほど書かされたからな」  庶民でもほとんどの人が文字の読み書きできるが、花魁は当然できて当たり前だ。馴染みの客に手紙を書くのは華乱でも日常茶飯事だったから、禿達は毎日世話役の花魁や柊さんに指導されながら、綺麗な文字を書く練習をする。だからそれなりに他人よりも上手い自信はある。 「読めるか?」 「うーん、一応。あんまり自信は無いけど一通りは」  さらさらと書いてすぐに筆記用具を片付ける。頑張って読もうとしているルーカスを横目に、朝食の準備をした。 「恋、文の、書き方……? 何これ?」 「見ての通りだ。恋する男への餞別に最適だろ」  恋の相手が奥ゆかしい日本の乙女ならまだ良いが、男顔負けの強かさを持つ女だ。正直なところ、これがどれほど響くかは分からない。その上これを読む本人にも想いを寄せる相手を口説く気概がないとくれば、この文書が役に立つ日は来ないかもしれない。まあ、それはそれでいいか。 「それじゃあ行ってくるけど、どうする? 一緒に行くか?」  朝食の後片付けをしてくれたルーカスに聞くと、ルーカスは頷いてそそくさと荷物をまとめた。 「もうこのまま荷物持って、船に乗せる?」 「そうするか。それが楽だよな」  俺よりも先に、ルーカスが振分荷物(四角い竹籠)と風呂敷を持ち上げた。 「こっちは分かるけど、こっちの布の重いの何入ってるの?」 「金」 「こんなに? 全部?」 「全部。散々稼いだけどこのボロ小家と暫くの食事代と多少の物を買っただけでほとんど使ってない」  自分で持つつもりで手を出したが、ルーカスに断られた。人と会うのに大荷物は邪魔だろうとの配慮だった。 「重いだろ」 「全然平気」  元々重さがある上に適当に放り込んだからかさんでいる。決して軽いとは言えないのに、全くそれが顔に出ていない。むしろ何も持っていないかのようにすたすたと歩いていく。 「ここ右に曲がってすぐのとこにあるから」 「分かった。じゃあここら辺で待っていた方がいい?」 「……そうだな。ありがとう」 「行ってくる」  角を曲がってすぐ、航大の家の戸を叩いた。運良く出てきたのが航大本人で、俺は安堵の息を吐く。 「アイリス? 家まで来るのは珍しいな。何の用だ?」 「お早う。今日出国するから挨拶に来たんだ」 「知ってる。別に律儀に来なくてもこの前済ませたろ?」 「ああ。でも前に話した日程よりもかなり早まったから」  そうか、と言って航大は外まで出てきた。朝に急に訪ねたにも関わらず、身なりは整っている。今日もこれから食事処へ行くのだろう。 「確か先週のアイリスの話だったらあと数日は居る予定だったか」 「元々長めに予定を立てていたんだろうな。仕事が終われば用はなくなるから、既にいつでも帰れる用意ができていたらしい。それより本題だ」  航大は俺から手紙を受け取ると、怪訝な顔で読み始めた。少しの間無言で読んでから、みるみると顔を紅くした。 「な、な、何でこれを俺に寄越すんだよ?」 「世話になった礼だ。要らなきゃ捨てればいい」 「……これ、この通りに書いたら、どうなると思う?」  きっと薫の事を思い浮かべて、悪い方向に考えているのだろう。不安げな表情で聞いてきた。 「知らねえ。でもあいつも年頃で、健さんと千代さんは身を固めてほしがってる。このままじゃ知らないうちに嫁入りするぞ」 「うぐぅ……」 「あっさり無くなったとはいえ、薫との縁談が俺にも来たくらいだ。意識くらいはさせておいた方がいいだろ?」 「でも、薫は俺の事なんか眼中にないじゃん」  航大の言葉に、思わず大きく頷くところだった。そもそも航大どころか、俺の事も客の事も全く恋や結婚の相手候補として意識していない。人の色恋話には首を突っ込みたがるのに自分の事はてんで興味がないのだ。さっぱりし過ぎて男の方からも理想の嫁ではないと思われているのが航大にとっては幸いだ。 「恋文はただのきっかけだ。だけどそれがきっかけで発展する恋もある」 「そう、なのか?」 「そういうもんだ」 「でも薫に笑われて終わるかもしれないじゃんか」 「あり得るな。だからこそ、本気で伝えるんだ。何度も何度も、伝わるまでな。他の男が薫に近づかないように一々牽制する暇があるなら口説き文句の一つでも考えろ」 「わ、分かったよ」  航大は手紙で顔を隠しながら返事をした。 「んじゃ、さよなら」 「おう……」  航大と別れて来た道を戻ると、ルーカスがにこにこと笑っていた。 「何だ?」 「アイリス、変わったね。オレと会ったばかりの時は他の人の事なんて心底どうでもいい、むしろ近づきたくないって感じだったのに」  確かに二年前の自分には想像できなかった。他人に抱く感情なんて「嫌い」「苦手」「どうでもいい」のどれかだったというのに、ルーカスに出会ってから愛情を知った。そして、関わる人に優しくしようと思えるようになった。無気力のまま適当に生きて、独りで死んでいくのだと思っていたのに、今では他人にお節介を焼くようになっている。 「オレ、儚げで他人を寄せ付けないような独特な雰囲気のアイリスに一目惚れしたけど、笑ってる今のアイリスの事大好きだよ」 「……俺も、ルーカスの正直で真っ直ぐで行動力があるところが好きだ。多分、初めて会った時から」 「多分なんだ」 「俺には『恋に落ちた瞬間』なんて情緒的なものは無い。いつの間にかじんわりと入っていたんだ」 「それも素敵」  俺はルーカスから風呂敷包みを受け取る。そして空いたその右手を取った。 「このまま真っ直ぐ船に行っていい?」 「ああ、もう全部済んだからな」 「そっか、ならこのまま――」  ルーカスの言葉が止まった。違和感を感じてルーカスの視線の先を見る。そこには七、八人の男達が不快な笑みを浮かべてこちらを見ていた。中には見覚えのある顔が数人いる。ぞわりとして、思わず繋いだままのルーカスの手を強く握った。 「大丈夫、オレがいるから」 「あ……ッ……」 「歩ける?」  俺は返事をするより先に、ルーカスの手を握ったまま男達がいる方とは反対方向に歩き出した。 「気付いたのに無視するとは、相変わらず冷たい反応だなあ、菖蒲」 「ひ、っ……」  叶うなら見間違いか気のせいであってほしかった。だが、声を掛けてきた奴は間違いなく花魁時代の客だった。 「別人だよ。彼はアヤメじゃない」 「誰だあんた。分かりやすい嘘吐いてねえでとっとと余所者は日本から出ていけよ……と言いたいところだが、あんたも随分別嬪じゃねえか」 「菖蒲と一緒に可愛がってやろうぜ」  男がルーカスに触れようとした瞬間、その手が叩き落とされた。 「アイリスにもオレにも触らせない」 「女みてえに髪伸ばしてんだ。本当は男に抱かれたいんだろ?」 「まっぴら御免だ」  ルーカスに荷物を渡され、奴らの視界から遮るように背中で隠された。 「俺らとやり合うのか? たった二人で何ができる? もうすぐ他の知り合い達とも合流するつもりだ。大人しくすれば、痛い目見なくて済むぞ」 「怪我が怖くて海の商人なんてやれるか!」  最も気の弱そうな男だけは怯んだが、他の奴らはにやにやと笑ったままだった。 「最近港に停まってる船、君達のでしょ? 良いの? 乱闘騒ぎを起こしたら二度と日本で商売なんかできないでしょ」 「構わないさ。国の貿易じゃないんだ。大事にすべきものは決まってる」 「生意気な――」  一人の男がルーカスに殴り掛かったが、ルーカスはさっと躱して逆にあっさりとその腕を捻った。男の短い悲鳴が上がると同時に、他の奴らも一斉に襲い掛かってくる。ルーカスは低く腰を落とし、戦闘態勢を取った。その時―― 「そこ、退いていただけませんか?」  男達の向こう側から、聞き慣れた声が聞こえた。

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