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第二十六話 アイリスの家族
扉が閉まる音がして、俺は読んでいた辞書を閉じた。扉の方を見ると、ルーカスが立っていた。部屋が薄暗いから顔はよく見えない。
「お疲れ」
「ただいま。会議が長引いて遅くなった。ごめんなさい」
「いや、勉強していたから問題ない」
「アイリスは勉強熱心だね」
ルーカスはよしよしと俺の頭を撫でた。恥ずかしくて擽ったい。大人同士のちょっとした年の差なんてあって無いようなものだと思っていたが、俺の方が年下みたいに感じる。実際はルーカスの方が二つ下だ。散々撫でて気が済んだのか、ルーカスは机の引き出しから何かを取り出してベッドに腰掛けた。多分、日本を発つ前に久弥さんから貰った手紙だろう。机の灯りで一瞬見えたのは、見覚えのある古い手紙だった。
「約束してたあの話したいけど、いい?」
ルーカスに聞かれ、俺は大きく頷いた。
「先に聞くけど、アイリスはご両親の事本当に覚えていないんだよね?」
「何しろ十年で自分の名前も忘れてたからな。華乱に売られる前は『居た』って事は何となく覚えているが……顔も覚えてないから、今ではあれが親かどうかも怪しい」
「そっか。両親がアイリスと離れてどうなったのか知りたい?」
「いや……縁が切れてると思ってるからどうでもいい。向こうもそう思ってるだろうよ。年季が明けてから迎えに来たって話も聞いてないからな」
もしも迎えに来ていたら華乱を訪れた日に、柊さんが一言言ってくれていたかもしれない。俺の親が『良い人』なら会う機会はくれていた筈だ。
「アイリスのご両親はアイリスの事を迎えに来なかったんじゃない。来られなかったんだ。例え日本に戻っても、もう会う事は無いよ」
「そうか」
ルーカスの言い方だと、悪さをして役人に捕まっているか死んだかだろう。なら尚更知らなくていい。そう告げると、ルーカスは「そっか」と返した。親不孝だとは言われなかった。
「じゃあ、この手紙も読まない?」
ルーカスは古くなった手紙を俺に見せた。もう何度も誰かに読まれたらしい。既に端が擦り切れ、色褪せている。
「アイリスのお父さんがヒイラギさんに宛てたものだ」
「別に要らない。今更、『こちらはこんな苦労がありましたごめんなさい』って言われたって、俺の過去は変わらないからな。……それに、俺宛てじゃないなら尚更要らない」
「そうだね。なら、この話はここまで。アイリスの判断ならきっとヒイラギさんもユキヤも納得してくれる」
ルーカスは手紙をまた元の引き出しに仕舞った。
「処分しないのか?」
「いつか読みたくなるかもしれないから。オレが内容を口で伝えるよりも、直筆の手紙の方が想いは伝わる」
スッ――と、宝物に触れるような手で手紙の入った引き出しを撫でた。俺は全く読みたいと思わなかったが、ルーカスにとっては、読んで良かったのかもしれない。
「ルーカスは俺に手紙を読んでほしいと思ったのか?」
「そう思ったなら、悩まずに見せてたよ。きっとヒイラギさんもユキヤも」
「久弥さんも読んだのか」
「読んだみたい。あと、ハルキとヒナタも知ってるって。一緒に渡されたユキヤの手紙に書いてあった。ハルキ、二年前に一度会った事あるけど、アイリスの先輩だったって知らなかったよ。ヒナタは分からないけど」
俺もルーカスと春樹さんが知り合いだったとは初耳だ。それを言うと、ルーカスは「そうだっけ?」と返した。
「二年前、アイリスの絵を見てアイリスの秘密を知ったって言った日に会った。あの日、泣きたくなって夢中で走ってたら、知らないところに辿り着いちゃって、迷子になった。その時にハルキとショウタに会って、港まで送ってもらったんだ。出航の時にアイリスの見送りに来ていたのも、ヒイラギさんと知り合いだったのもビックリした」
「そうだったのか。じゃあ春樹さん達がルーカスにも手を振っているように見えたのは気のせいじゃなかったんだな」
「うん。多分」
「日向と春樹さんは久弥さんと同じ上級花魁だった。それと宗次郎さんも。久弥さんと春樹さんの次が宗次郎さんと日向だった。今でもよく華乱に出入りしているから、華乱や柊さんの事を色々知っていても不思議ではないな」
「なるほど」
ルーカスは合点がいったように頷く。そして再びベッドに腰を下ろした。
「話は済んだし、そろそろ寝ようか」
「本当にルーカスの悩みは解決したのか?」
「うん。アイリスに手紙を見せるべきか悩んでただけ。でもアイリスが読まないって言うならそれで良いんだ。アイリスの家族とか昔の事を話して良いか分からなかったから迷ってた」
「それは……気を使わせて悪かった」
「いいの。アイリスの気持ちが一番大事」
手招きをされ、俺はルーカスの隣に腰掛けた。ルーカスは俺を抱き締めてぽんぽんと優しく背中を叩く。俺は引き寄せられるままにルーカスに寄りかかり、そして心地良さにそのままうとうとしてしまった。
「オレがアイリスの家族になるから、これからもオレの隣で笑っていて」
瞼を閉じて眠りに落ちる直前、ルーカスは確かにそう言った。
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