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第二十八話 ルーカスの家
日本を発ってからおよそ一ヶ月後の夕方、やっとイングランドに到着したらしい。
「アイリス、見て! 着いたよ! 此処がオレ達の国だ」
ルーカスに急かされ、俺はデッキに出た。まだ遠いが、薄っすらと海の向こうに知らない陸地が見えた。
やがてそれはだんだん近付いてきて、建物や人影がはっきりと見えてくる。港には、見覚えのある大きな船が泊まっていた。
「これはオレ達が前に乗っていた船。ウォーリックの本船だよ。此処に泊まっているって事は、父さんは家にいるかも」
「そうか、どうりで見覚えがあると思った。こんなにでかかったっけか」
「こっちの船に見慣れるとね。改めて見ると本当に大きいよ。それにしても、無事着いて良かった」
ルーカスは仲間達に指示を出して船を港に寄せて泊めさせた。そして休む間もなく、次々と荷物を持って降りる。俺も同じように、船の積荷を持って船を降りた。
「此処が……イングランド」
「正しくは『United Kingdom of Great Britain and Ireland(グレートブリテン及びアイルランド連合国)』。イングランドはその中の地域の一つ」
「United Kingdom of Great Britain and Ireland……」
「Well done!(良くできました)」
ルーカスは"うぃんく"をしながらグッドのジェスチャーをした。かなり様になっていて格好良い。
「アイリスもかなり英語が上手になってきたね」
「ルーカスや皆のおかげだ」
「良かった。これでイングランドでも生活できそう?」
それを聞かれるとまだ自信は無い。だけどそれなりに話す・聞く・書く・読むはできるようになった筈だ。
「ま、何かあってもオレ達がいるから大丈夫!」
「ありがとう。心強いな」
積荷は港近くの倉庫や馬車に乗せていった。ある程度仕分けて倉庫の人達に引き継いでから、自分の荷物を持って港を離れる。仲間達もそれぞれ自分の家に帰るらしい。
「ルーカスの家は何処にあるんだ?」
「此処から馬車で四半刻くらい。これ、乗って」
ルーカスが先程積荷を乗せた物よりも一回り小さな馬車を引き止めた。俺は言われるままに乗り込むと、ルーカスも俺の隣に座った。一緒に居たハリーが御者に行き先を告げてから反対側の椅子――進行方向に背中を向けて俺達と向き合うように座る。行き先が同じ方向なんだろう。
「アイリス、緊張してる?」
「ああ……凄いしてる。ルーカスの家族ってどんな人達なんだ?」
ルーカスは俺を落ち着かせるように左手をぎゅっと握った。
「俺の家は四人家族だよ。父さんと、母さんと、姉さんが一人居る。父さんは会った事あるから分かるよね?」
「まあ、少しは」
「母さんは美人で刺繍がとても上手な人。ちょっと……結構厳しくて怒ると怖いけど、でも心配性で父さんの事は大好きなんだ。姉さんは一つ年上で、優しいというかオレに甘い。読書家でロマンチストな人。governess(家庭教師)をやってる」
ルーカスは楽しそうに家族の話をする。その様子を見て、家族の事が大好きなんだろうなと思う。
「使用人は六人。皆をまとめているのが――」
「ちょっと待て」
「どうした?」
「使用人ってどういう事だ? ルーカスの家は金持ちなのか?」
ルーカスは何度か瞬きをしてから、「ああ」と思い出したように言った。
「貿易商人だからね。宝石商や武器商人ほどじゃないけど、そこそこお金はある。伯父である父さんの兄さんが伯爵。だけど俺の父さんは三男で、爵位は継げないから何も無い。多分アイリスが想像しているほど豪華じゃないよ。身分的には中流階級かな。だから安心して」
日本の金持ちは嫌と言うほど見てきたとはいえ、俺は庶民なんだが。安心する要素は何処にあるのだろうか?
「たまに仕事で王宮に入る事もあるけど、勿論礼儀作法や言葉遣いとかは完璧にできるようになってからだし、アイリスが嫌なら一緒に行かなくていいから大丈夫。それに、もしオレの家が気に入らなくても、どうせ一年の半分以上は船の上だし!」
「最後のその言い方はどうかと思いますが」
あっけらかんと言うルーカスを見て、それまで黙っていたハリーが微妙な顔をして口を挟んだ。
「アイリス様、もし本当に辛いと思ったら、遠慮無く私に言ってください。貴方が快適に生活できるよう、最大限お手伝いしますから」
「ありがとうございます。あの、ハリーさんって、ルーカスとどういう関係なんですか?」
この言い方からしてもしやとは思ったが、一応聞いてみる。
「私は坊ちゃん――ルーカス様専属のvalet(従者)です。船の上では他の皆様と同じ、一人のクルーとして働いています」
「そう……だったんですか」
日本でよく共に行動していたのはその為だったのか。だが俺が知る限り、俺とルーカスが一緒にいる時にはあまり姿を見なかった。それについて聞くと、
「アイリス様と二人きりで過ごしたいと言われていたので。それ以外でも、自由に息抜きをしていただきたく、万が一に備えて密かに見守るだけにしていました」
と返ってきた。
居たんだ……今までいつ何処で何を見聞きしていたんだろうか。
「俺達、出航直前に下衆な輩に絡まれたんですが」
「あの程度、坊ちゃんならばアイリス様を護りながらでもどうにでもなります」
「二年前、ルーカスが迷子になって春樹さん達に港まで送ってもらったって」
「勿論知っています。もし別の場所に連れて行かれるようだったら私が連れ帰るつもりでした」
ハリーはにっこりと笑った。割と放任主義らしい。危機感がないのか、ルーカスの強さと自立度を信頼しているのか、元々そういうものなのかは分からないが、四六時中久弥さんの背後に付き、常に目を光らせている宗次郎さんとは随分違う。
ほどなくして、馬車は止まった。
「着きましたよ」
扉が開いて、最初にハリーが降りた。俺が降りる時に、ルーカスが手を貸してくれる。俺とルーカスの荷物はハリーが持ってくれてた。自分で持つと言っても「仕事ですから」と断られた。
「着いた。此処がオレの家だよ」
目の前の"家"は大きな鉄製だろう門があり、その中に沢山の植物が茂る広い庭が灯りで照らされ、更にその奥に白っぽい大きな建物がある。木造である日本の遊郭とは違う豪華さで、江戸城とも違う威厳がある。初めて見たものに何と例えれば良いのか分からなかった。
ハリーが門を開けて俺とルーカスに中に入るよう促した。俺はルーカスの後を着いて、背の低い木や花に囲まれた一本道を歩いていく。その後ろをハリーが着いてくる。
『お帰りなさいませ。坊ちゃん、アイリス様』
ドアの向こうから、白と黒を基調とした服を着た若い女の人が出てきた。
『グレイス、ただいま。アイリス、彼女はハウスメイドのグレイス。主に掃除とか、身支度の手伝いとかをしてくれる人』
ルーカスに紹介されたグレイスは服の膨らんだところを摘み、軽く頭を下げた。
『グレイス、こちらはアイリス。日本から来たオレの恋人。オレと同じように扱ってね』
『かしこまりました』
『お世話になります』
居心地が悪いというか、どうにも慣れなくて背中がむずむずする。本当にルーカスの家に来たのだと実感した。
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