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最終話 "アイリス・ウォーリック"
アイリスが出国して四年後、日本。
「失礼致します、柊さん。椿です」
「入りなさい」
柊の部屋の襖が静かに開き、椿が入室した。
「柊さんにお手紙が届いています」
「手紙?」
誰からだろうか? 遊郭の経営を久弥に任せてもう一年以上が経っている。華乱から歩いて来る事ができる距離だから、その関係者からの伝言ではないだろう。ならば以前此処で働いていた者達の誰かだろうか? 友人と呼べる者も殆どがもう先に逝っている。久方振りに届いた手紙の差出人に心当たりの無い柊は首を捻った。だが、椿が告げた名は予想外の人物からである。
「アイリスからです」
彼は今海の向こうにいると思っていた柊はひどく驚いた。だがすぐに、彼の恋人は世界を旅する商人だった事を思い出す。また日本に来て誰かに手紙を届けさせたとしても何ら不思議ではない。
「読み上げましょうか? それともこのままお渡ししますか?」
「自分で読むよ。渡してくれるかい」
「かしこまりました」
椿は手紙の封を開け、広げて柊に渡した。老いて細かい文字を読むのは難しくなっており、全文読むにはかなり苦労しそうだが、やはり自分で見ておきたかった。
「席を外しましょうか?」
空気を読んだのか、椿は離席の意を示す。柊にはそれが有難かった。
一人になってから、手紙に目を落とす。
〈柊さんへ
アイリスです。随分と御無沙汰しておりますが、後息災でお過ごしでしょうか? 突然の手紙に驚きましたか? 折角日本での仕事があったので本当は直接お会いしたかったのですが、多忙により手紙を送るだけになってしまった事をお許しください〉
アイリスは今も恋人と一緒に過ごしているようだった。やっと見習いから卒業し、一人前の商人の仲間入りをした事や近状について綴られていた。柊は黙って手紙を読み続ける。
〈それから、久弥さんが以前ルーカスに託してくれた、父が柊さんに宛てた手紙を最近になってやっと読みました。華乱で過ごしているうちに両親の事は殆ど忘れてしまっていたけれど、手紙を読んで一つ思い出した事があります。父は俺に文字の読み書きを教えてくれました。手紙の文字と俺の文字をを見比べると、確かに親子でした。父は本当に死ぬ直前まで俺の事を想っていてくれたのでしょうか?〉
柊はアイリスの父の文字を思い出し、手紙の文字を見る。同じ崩し方をした漢字や他の人よりも丸っこい文字はよく似ていた。
〈それから、俺に三人目の父と二人目の母ができました。一人目の両親は俺と血が繋がった両親、二人目の父は柊さんです。三人目の父と二人目の母はルーカスの両親です。一つ年下の妹と三つ年下の義弟もいます。甥もできました。いつか直接お話ししたいです。日々勉強で大変な事も沢山あるけれど、俺はこの先もずっと、一生ルーカスと共に生きていきます。〉
"アイリス・ウォーリック"
手紙にはそう記名されていた。たった十一文字のそれは、アイリスが幸福を得た事を物語っている。柊は穴が空くほど見て、それから左手で顔を覆った。
「孝明、晶子さん……君達の大事な子は遠い海の向こうで幸せになったよ」
託された大事な彼らの子から笑顔を奪ってしまった自分の力不足は悔やんでも悔みきれないが、今はもう、アイリスはちゃんと笑っている筈だ。
もうこれで思い残す事は無い。一筋の涙が柊の頬を伝って手紙に落ちた。
―了―
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