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第14話

「だいじょーぶ大丈夫。具合が悪いとかじゃないよ」 「ひかりはすぐそうやって我慢をしようとする。良くない」  隣に座ってきたアラキが更に言い連ねるのを聞きながら、ひかりはそのままシミのない天井を見上げてアラキを視界からわざと消してしまうと、ようやく決意したように口を開いた。 「あのさ、この間の……ことなんだけど。通報しなくていいって言ったけど、あれは……兄さん、だったんだ。アラキさんがすごい心配してくれているの分かるし、俺もどうにかしなきゃってずっと考えていた。……でも、怖いんだ。あいつが逆恨みして、今の俺が作り上げた生活をぶち壊しに来るのが。いつも、兄さんは俺が大事にするものが大嫌いだった。俺が気に入ったって分かるとすぐに壊しに来る。殴られたりとか、触られたりとかはしょっちゅうで……それも怖くて。――あ、アラキさんに何かして来たらどうしよう。アラキさん、どこか遠くに隠れなきゃ……っ」 「ひかり!」  アラキに両肩をつかまれながら強く呼びかけられて、ひかりはひどく驚いた顔をした。目を丸くして、ぽかんとアラキを見上げてくる。子どもが途方に暮れた時のような表情だった。 「落ち着いて。私は確かに『物』だが、床に叩きつけられて壊れるようなオモチャではないよ」  冷静なアラキの声音にひかりは何度か呼吸を繰り返すと深く俯いた。 「……アラキさんを『物』だなんて、思ったことなんかない。……でも、オモチャっていうのならそれは俺の方だ。俺はずっと、あの人たちのオモチャだった」  ぽつぽつとひかりが話し出したのは、アラキがひかりと出会うよりもずっと前のことだ。  父親が生きていた頃は、ごく普通の家族だったこと。  しかし最愛の夫を失った母親は正気を失い、ひかりが気づいた時には父にそっくりな容姿を持つ歳が離れた兄を死んだ自分の夫に見立てて扱い始めたこと。その中でも自分は母にとってあくまでも子どもだったけれど、子どもであることを許されなかった兄はそこからどんどんと歪んでいったこと。今度は兄が自分の恋人であるかのようにひかりを扱い始めたこと。母は、それを見せつけられて嫉妬を現すようになり――幸せで大好きだったひかりの家族は、日を追うごとに壊れていったこと。  ある日ひかりの部屋に入り込んでいった兄の姿を見て、とうとう包丁を持ち出した母親から逃れるために高校を卒業して間もないある日、家から飛び出したこと。  アラキが静かに聞いているせいか、ひかりは他人事のように淡々と話すことができた。こんな話、ふつうの人間になら絶対にできなかった――が、人の感情を本来なら持ち得ないアラキになら話せるように思えたのだ。やがて話し終えたひかりはアラキに抱きしめられていた。 「……逃げて正解だった。私のデータの中にもないくらいに酷いケースだと考えられるから」 「逃げて……良かった」  ああ、と短いけれどはっきりとアラキに肯定されてひかりはようやくぼろぼろと涙を流し始めた。ずっと、自分一人だけ壊れていく家族を見捨てて逃げてしまったと思っていたから。    「引っ越しをしよう。事件にしたくなくても、不審者がうろついているくらいは警察に言ってもいいだろうし、役所に届けを出せば住所も見えなくすることができるはずだ」  ふと、これからのことを話しているアラキが怒っているように感じられてひかりが見上げると、アラキのアンバーの瞳が揺れ動くのが分かった。そういう揺らぎを見るのは初めてで、思わずひかりはじっと見つめてしまう。 「ごめん、やっぱり気持ち悪いよね? 血がつながった家族なのに……」 「違う、そう思考したわけじゃない。だが、どうしてひかりにそこまで彼らが酷いことができるのか……私には理解できないし、したくもない。私は、ひかりのことをずっと大切にする」  アラキがひかりの家族に怒っているのだと分かって、ひかりは目を瞬かせた。アラキは、自分よりもずっと人間みたいだ――そう思ってきてはいたけれど、最後にアラキが使った『大切』という言葉に彼の感情を伺い知ることができた気がして、頭で考えるよりも先に顔が赤くなった。 「あ……あのっ、その顔でそんな……反則」  赤くなった顔を隠すようにアラキの胸あたりに顔をうずめると、優しく抱き返されてますます全身が紅潮するのを感じる。  外の世界では一人ではなくても、父が死んだ後の家の中では――あの家族の中では、常にひかりは一人だった。誰か、この昏い感情を分かち合ってくれる誰かを、ずっと探していたのだ。 「俺も、アラキさんのこととっても大切で大事だからね」  なんとか絞り出した小さな声でそう呟くと、ひかりはしばらく無言のまま、アラキの聞こえないはずの鼓動を聞いていた。

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