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第36話

鶴見に、身辺に気をつけろ、たまには片倉様のところに顔をだせ、のようなことを捨て台詞で言われ、圭はマンションの前で車を降りた。 外に出ると、電話がかかってきた。南川からだ。そこで、今日のこの時間に約束していたのを思い出した。 まずい、と思いあわてて出た。 「どうかしたのか?」と心配そうに電話の向こうの南川が言う。 圭は、待ち合わせの時間には正確で、だいたい数分前にはついている。遅れたので、心配しているのだろう。 今日は、隼人の家で目が覚めて、気分は最悪で、おまけに鶴見が突然訪ねてきたせいで、頭の中のスケジュールが完全に混乱してしまったのだ。 「悪い。遅れる」とあやまった。 南川は、自分のオフィスで狭霧が来るのを待っていた。約束の時間を後にずらして再度設定したのだ。 事務所は小さいが、南川の知り合いがビルのオーナーで、内装も知人のデザイナーがデザインしている。南川の趣味に合わせてもらった小ぎれいなオフィスだ。 柔らかな色彩と心地よい空間となっていて、探偵事務所というよりも心療内科かカウンセリングルームのようだ。 探偵に仕事を頼むことを心配し緊張している顧客も、ここに来て落ち着いた声の南川と話をすると、だんだん心を開いてくれる。 普段、狭霧は約束を違えることはめったにないし、しかも連絡もしてこなかったのは初めてだった。 彼は、遊び人っぽく過ごしているが、仕事は律儀で時間やスケジュールは順守していたのだ。 なにか、事件に巻き込まれたのだろうか、と南川は心配していた。電話に出て声を聞けて少しだけ安心した。 今回、狭霧が自分に声をかけてきたとき、嫌な予感がしたのだ。 案件そのものが普通の探偵仕事の浮気調査や身上調査とは異なり背景がすっきりしていなかったことが理由だ。 もう一つ、狭霧の様子がいつもと違っていることも心配の種だった。 狭霧は、いつになく緊張しながらも高揚しているような雰囲気だった。高校の時の友人という大内隼人が顧客だからだろう。 そして、この遅刻だ。 事務所のドアは開閉するとかすかに爽やかな鈴の音がなる。そのチリンという音とともに狭霧が現れた。 南川は彼の姿を見て思わず声をだした。「ひどい顔色だな。どうしたんだ?」 「体調不良」と狭霧は一言で答えた。 顔は青ざめ、目の下にクマがある。 「風邪か?飲みすぎ?」 「そんなとこ」と狭霧はどちらも否定しなかった。 寝ていて今日の約束を忘れたのだろうか。狭霧は自分の体調について話をしたくなさそうだったので、聞くのはやめた。 「コーヒー飲むか?」 「いらない。あったかいお茶くれないか?」口調はわがままだが、弱っている。 「はいはい」 南川は、苦笑した。 狭霧は、事務所の打ち合わせ用のテーブルの椅子に腰かけ、目を閉じ、頬杖をついて待っていた。ぐったりしている。 南川は事務所の奥に行き、緑茶を入れ、自分用にはコーヒーをもってもどった。 彼は、半分目を開け、お茶を差し出すと礼をいって受け取った。そして、お茶を一口飲みこんでいる彼に、南川は書類を差し出す。 「塚田のことをもう少し調べたんだが、謎が多い」 「へえ」と狭霧は言い、書類を見る。「ドラッグの売人なんだから、謎があって当然じゃないのか」 「いや、ドラッグの売人でもなんでも、出身地や学校、両親や親戚。施設で育ったとしたら、その情報も、あるだろう。どうして身元情報を消す必要がある。子どもの頃の友人や知人だっているはずだ」 狭霧は、首をかしげる。「ないの?」 「なにも、ない。突然この世に姿を現したようだ。免許証は持っているみたいだが、登録している戸籍も、誰かから買った可能性がある」 「塚田の関係の組長の五十井に紹介した奴がいるはずだろ。急に、インターフォン押して、『こんちは、雇ってください』『ようこそ。はい、どうぞ』ってありえないだろ」 「流れ者だったということだが、元々の紹介者は、どこかに行ってしまったらしい」 「NPO法人といい、塚田といい、変な話だな」と狭霧は言った。

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