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第38話

一昨日の夜、圭を抱いて以来、隼人の頭の中は一部が真っ白で、動かなくなっている。 あの夜の翌日、昼過ぎに圭から電話があった。圭は覚えていないと言っていた。その声も態度も普段通りすぎた。 圭の声を聞き続ける緊張に耐えられず、隼人は電話を切り、それきりにしている。 何度もかけ直そうと思っていたのだが、できなかった。 圭から発せられるだろう自分を責める言葉を聞く勇気がないのだ。 だけど、と隼人は考える。 あの電話の圭は、覚えていないと言っていた。口調は嘘とは思えない。 圭から再度の電話はない。 本当に覚えていないのだとしたら。自分もなかったことにすればいいはずだ。 普通に電話をすればいい。普段通りに、話をすればいい。 そういう自分がいたが、頭のどこかは白くなって動かないままだ。 会社で隼人が廊下を歩いていると、経理の仕事をしている森町比呂子に声をかけられた。 「社長、ちょっとちょっと」と呼ばれ、手招かれる。 比呂子は、30年以上大内警備で働いている50代の女性だ。確か、息子が3人くらいいて、全員社会人になっている。仕事は丁寧で確実。信頼がおける一人だ。 社内事情に精通していて、人間関係の調整から体調管理まで、おせっかいの一歩手前くらいまでやってくる。 隼人も社長とはいえ、彼女からしたら息子の一人程度の若造扱いだろう。いつも気軽に話しかけてくる。 「なんですか?」 招かれた先は小会議室だった。 中に入ると、比呂子以外に管理部長の新見もいる。彼は10年前に転職してきた30代後半の男だ。管理部長とはいうものの、営業もするし、現場の調整もする。嫌がらずに率先して仕事をしてくれる頼りになる社員の一人だ。 「どうかしましたか?」 つい表情が硬くなる。 この二人がそろっているということは、会社に経営上の問題があるということだろう。資金繰りか、銀行がなにか言ってきているのか。それとも、と頭の中がグルグルまわる。 二人は、まあまあどうぞ、と言って、隼人を自分たちの前に座らせた。 そして顔を見合わせている。 沈黙が続いたので、隼人が話を切り出した。 「なんでしょうか?」 比呂子がやっと口を開いた。 「社長、なにか会社で私たちの知らない大問題がおこっているんですか?」 隼人は身構える。 大きな問題がおこっているんだ。二人は、話しにくそうにしてはいる。経営者としての経験値の低い自分に気を使っているのだろう。 ここはとにかく冷静に聞かなければ。 比呂子が言う。「いえね、最近、資金繰りの目途もついてきたし、お仕事も先まで決まるようになってきたでしょう。社長が毎日頑張ってくださって。そりゃあ、まだ、支払いも大変だし、黒字ってわけではないですけど」 新見が比呂子の脇をつついて話を促している。 比呂子は、うなずいた。 「なのに、ここのところ隼人さん上の空で、昨日も今日も、なんだか怖い顔してるでしょう。問題があるんだとしたら私たちにも話をしてほしいんですよ。力不足だけど、なにか工夫できるかもしれないし」 真剣な顔で比呂子と新見が自分を見ている。

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