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第57話

古本屋を出るとポツポツと雨が降り始めた。圭は肩をすくめて雨が首筋に入るのを避けた。 すぐにタクシーを停め、二人で乗り込むと隼人のワンルームマンションへと行き先を告げた。 圭は無言だ。何かを静かに考えているようだった。 隼人も何も言うことがなかった。 圭はそのままタクシーで隼人の家に行った。 家に着くと隼人が冷蔵庫の中身で適当に食事をこしらえるのを手伝った。 一緒に食事をするのは、もう何回目だろうか。 ネギとワカメの味噌汁。肉多めの野菜炒めに目玉焼きを乗せる。ほうれん草のからし和え。隼人の手際はよく、机の上に料理が並んでいく。 もしかすると、隼人は、自分が来ることを予想して、材料を多めに買ってくれているのかもしれない、と圭は思った。 二人で向かい合い、相変わらずのチグハグな食器で食事を始めた。 圭は、味噌汁をお代わりした。出汁がよくでていて、身体が温まる。 「関西に行こうと思う」と圭は言った。古本屋に教えてもらったドラッグのルートから情報を得るのだ。 圭は、スマホを操作し、隼人が整理した英語の文章の画面を出す。 「今日の話に出てた組織の名前と、この英語のメールにあったイニシャル同じだろ。塚田のドラッグのルートだ」 実際に関西に行ってその組織があることや塚田へのドラッグの流れがあることを確認する。 「ルートがはっきりすれば、犯罪の証拠になる。このメールも、関西の組織の動きを抑えるのに役に立ちそうだ」 隼人はうなずいた。だが、さっきから言葉少なだ。 こちらの話は聞いているようだが、何か、考え事をしているようにも見える。 いつもなら、気をつけろとか、関西にはいつ行くのかとか、質問してくるだろうに、何も聞いてもこない。 茶碗をじっとみている隼人に、ふと何気なく思いついて、「媚薬って、信じる?」と圭は聞いた。 隼人は茶碗から顔をあげなかった。「信じるって?」と彼は質問した。 「いや、あの、さ。さっきあの男も言ってただろう。ピンクの錠剤。すごい媚薬なんだって。南川も行ってたけど、あれ、セックスすごくしたくなって、とまらなくなるらしい。どんなお堅い奴でも、懇願するらしい。おまけにやった時の記憶がぶっとんでる。コッソリ飲ませたら、やりたい放題だろう。そんな媚薬本当にあるのかな。そんなやる側に都合のいい媚薬なんて、嘘みたいだ。実際には、そこまでの効き目じゃないんじゃないか、とか、記憶が全くないなんて嘘だとか」 「さあな」と隼人は言った。彼は自分の皿の中をあっというまに平らげていた。 夜が更けていく。 食事が終わった後、圭は窓の外を見ていた。 「帰るか?」と隼人に聞かれた。 「雨、まだ、降ってる」 「傘貸すぞ」 圭は、ふりかえって隼人に言った。 「雨好きじゃないんだ。泊めてくれよ」 「布団の予備がない」と隼人は首を横に振った。 「気にしないけど」 「どうやって寝るんだよ。布団なしじゃ、風邪ひくぞ」 「そのベッドで一緒に寝たらいいだろ。俺、寝相はいいから蹴飛ばしたりしない。隼人に蹴飛ばされたら落ちちゃいそうだけど」 「からかうなよ。タクシー呼んでやる。今日は、もう帰れ。俺は朝早いし、お前はお前で仕事だろう」 やや早口だ。 「帰れよ」強引な口調だ。隼人がスマホを手に取り、タクシーを呼ぼうとしている。 ふと、握りつぶしたはずの疑念が、冗談の泡のように湧き出てきた。 圭は何げなくきいた。 「俺が、泊まるの怖いのか?」 「え?」 隼人がこちらを見た。 ぎくりとしたように見えた。見えただけだ。気のせいだ。 これ以上、ふみこんじゃだめだ、と何かが圭につげた。ここで終わりにしておこう。あらぬ方向にすすんでいくまえに。 だから、圭の方は、そこで、話を終わらせようと思ったのだ。隼人が呼ぶタクシーに乗り、帰ろうと。 だが、突然、隼人が聞いてきたのだ。 うっかり口を滑らせた感じだった。 「覚えているのか?」 「何を?」と圭は答えた。その回答があまりにも早すぎた。 隼人はすぐに視線をそらした。 「いや、いいんだ」と隼人は首を横に振った。 圭は、むこうをむいた隼人の首筋をみた。硬くこわばっている。彼は、こちらを振り向きもせず、帰れともう一度言った。 タクシーが来るまでのわずかな時間、隼人は無言で、なんの目的もなくスマホをいじっていた。 圭の心の中で、ほとんど消えかけていた疑念が、急にくすぶりだした。いや、それは、もう、疑念ではなかった。確信になっていた。

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