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第10話:ケイのために、俺は戦うと決めたんだ。
彰文から告げられた期限は、もう目前に迫っていた。
恐らく、もう逃げることは不可能だろう。例え一時的に彰文の手を振り切れたとしても、すぐに捕まる結末が目に見えている。
けれど、今の奏人に以前のような絶望はなかった。
彰文の理不尽な命令に抗うことを、決めたからだ。
「お疲れ様」
「お疲れ様。フフッ、嬉しいな。こんな風に二人だけの打ち上げができるなんて」
ソファーに並んで座った二人が、祝杯のグラスを合わせる。勿論、未成年のケイにはジュースだ。
「これはケイがショーを頑張ったご褒美……とういのは嘘で、俺が二人だけでお祝いしたかったんだ」
この二人だけの祝宴は、ショーの閉幕後に行われた打ち上げの後、奏人の発案で決まったものだった。
ただ、祝いといっても用意したのはコンビニで買った缶ビールにジュース、そして軽い摘まみだけ。さらに二人共にシャワーを浴びた後のスウェット姿なので、どう見ても友人同士の飲み騒ぎにしか見えない。
だが、今はそれぐらいの気軽さがちょうどよかった。
「ボクはそっちの理由のほうが嬉しいよ。……ねぇ、奏人さん。今はジュースしか飲めないけど、誕生日がきて二十歳になったら、一番にボクとお酒飲んでくれる?」
唐突に願われ、驚きに目を丸くする。
ケイの誕生日は、三ヶ月後。彰文とのことを考えて一瞬躊躇ったが、奏人は微笑んで頷いた。
「いいよ。誕生日は一緒にお酒飲んでお祝いしてあげる」
「本当? 約束だよ!」
目を輝かせているケイを、親になったかのような気持ちで見つめる。
「ねぇ、ケイ」
「ん?」
「ちょっと気恥ずかしいけど、酔っちゃう前に言っておくね。――――今日のステージ、格好よかったよ。それと最後に俺のほうを見て笑ってくれたのも、嬉しかった」
今日のステージの感想を述べると、ケイは今まで綻ばせていた顔を急にきょとんとさせ、目を丸くした。
「奏人さんが、こんなに褒めてくれるなんて……」
「意外すぎて信じられない?」
「うん」
「ふーん、分かった。そんな風に言うなら、今後一切ケイのことは褒めないことにする」
「えっ、それはダメっ。ボク、奏人さんにもっと褒めてほしい!」
慌てた様子でグラスを置いたケイが、必死に腕を掴んでくる。それがやけに子供っぽくて、奏人は呆れながら笑い声を上げた。
「はいはい。ちゃんとケイが子供みたいな我が儘言わないで、社長やスタッフの言うこと聞いたら、また褒めてあげる」
酒を飲みながら、腕を掴むケイの手を退かそうとする。
だが、何故かケイは指の力を緩めなかった。
「ケイ?」
「奏人さんは?」
「え?」
「何で、そこに奏人さんの名前がないの?」
「どうしてって……」
目の前で首を傾げられ、反応に困る。
「今の言い方、奏人さんがいないみたいで嫌だよ」
言われた奏人は瞠目した。
自分では何気なく言ったつもりだったが、どうやら無意識に明日からのことを、視野に入れてしまっていたようだ。
「ゴメンゴメン。そんな風に聞こえたなら謝るよ。でも、別にケイが考えてるようなことはないから、安心して」
「本当に? ボクを置いて、どこかに行ったりとかしない?」
「…………俺はケイを一人にしないよ。けど例えばの話、もし俺がケイから離れることがあっても、ちゃんと戻ってくるよ。だって、俺の居場所はケイの隣しかないからね」
真実を告げることはできないが、それでもどうにかケイが落ち着く言葉を探して紡ぐ。
「奏人さんの居場所が、ボクの隣?」
「そう、ケイの隣」
それは、セドリックとの話の中で気づいた事だ。自分は何の取り柄もない平凡な人間だけど、ケイを変えることができる。それはつまり、ケイが奏人の存在価値を証明してくれているということ。
ならば、自分の居場所はケイの隣しかない。
「うん、だから安心し…………うわっ!」
突然、横から抱きしめられる。肩と頭を長い腕で包みこまれ、奏人の身体はケイの胸の中へと沈んだ
「ケイ、いきなりびっくりするじゃないか」
「ごめんね、でも……嬉しくて……」
強く、なのにどこまでも優しい抱擁。たったそれだけなのに、ケイの愛情が存分に伝わってくる。
「ねぇ、ケイ……今日のケイは、本当に強くて格好よかった。そんな姿を見て、俺もケイみたいに強い男になりたいって思ったんだ」
密着した場所から伝わってくるケイの体温が、じわりじわりと身体の奥に染みこんでいく。こんな時でもやはり汚い欲望は反応してしまって嫌になるが、ケイのように強くなれば、いつかはこんな自分でも好きになれるかもしれない。
そんな未来を掴みたいのだ。
「俺も、ケイみたいになれるかな?」
「奏人さんがそう思っているなら、なれるよ。でも一人で不安なら、ボクと二人で強くなろう?」
ケイがわずかだが、奏人から身体を離す。そして、真っ直ぐこちらを見つめながら、舞台の時と同じ笑顔を浮かべてくれた。
大好きな、ケイの笑顔。慈しみに染まった琥珀色の瞳は本当に綺麗で、引きこまれてしまう。
ずっと見ていたい。けれど、奏人はそっと瞼を閉じた。
ケイとキスがしたい。
それは、言葉のない合図だった。
待っていると顎を指で撫でられ、少しだけ上を向かされる。それからすぐに、温かくて柔らかな感触が唇に触れた。
「ん……」
最初は小鳥がついばむような浅いキスから始まり、少しずつ唇が触れ合う感覚が長くなっていく。
やがてケイの舌先が合わさりから口腔内へと侵入し、歯列をなぞるように舐め上げられると、官能を刺激されるキスの味に背筋がゾクリと震えた。
身体に力が入らない。震える指でなんとかグラスを落とさないようにしていると、気づいたケイにグラスを奪い取られた。
奏人の見えないところで、グラスを置く音がする。かと思ったら、次の瞬間には身体がソファーへと押し倒されていた。
逃げる場所がなくなったことで、キスがより一層深くなる。
「ん……んっ……」
しなやかな弾力の舌で口腔内を侵され、弄られ、溢れそうになる唾液を舌ごと絡められながら吸われる。まるで手慣れているんじゃないかと勘違いするぐらい巧みで濃厚なキスに、理性の全てを奪われそうになるが、奏人も負けじと舌を絡めた。
もっと、もっと欲しい。
「奏、人……さん……」
息の継ぎ間に、甘い声で呼ばれる。
「ん……?」
惜しみながら舌を引くと、ケイの熱い視線と重なった。
静かな呼吸で抑えているように見せているが、その目にはしっかりと男の欲が宿っている。
ケイが何を望んでいるのかなんて、聞かなくても分かった。
「ケイ、俺、もっと強くなりたい。欲しいと思ったものを、自分の力で掴めるぐらい強く」
奏人は両腕を伸ばして、ケイの首にそっと絡めた。
「でも一人じゃ無理だから、ケイの強さを少し分けてくれる?」
「ボクの強さでいい?」
「うん。他の誰のでもない、ケイのがほしい」
願うと、奏人は身体を起こしたケイに抱き上げられ、そのまま寝室へと連れて行かれた。
・
・
ケイの身体のサイズに合わせた大きなベッドに下ろされた奏人は、胸を高鳴らせながら服を脱ぐケイを見つめた。
ケイの裸なんて、衣装を着替えたりする時に何度も見ているのに、何故か今は気恥ずかしさでいっぱいになっている。だが、それでも引き締まった身体から目が離せない。
これが将来、世界中の人間を魅了することになる男の裸。そう思うと、鼓動が一段と跳ね上がった。
「奏人さんの服も、脱がしていい?」
「……ど、うぞ」
脱いだ服を置いた指にゆっくりと上着を脱がされ、肌が露わになる。しかし、そのまま触れられるかと思いきや、ケイは何かに気づいた様子で自分の指を見つめていた。
「ケイ?」
「ああ、ごめんね。これ外した方がいいかなって思って」
「指輪?」
「うん。尖ってる部分があるから、奏人さんの肌を傷つけちゃうかもしれないでしょ」
確かに、いつも嵌めている指輪の装飾には尖っている部分がある。ただ、それでも触れただけで傷がつくほど鋭利なものではない。別段気にしなくてもいいと思うが、ケイはそう思わないらしい。
そんな優しさに、心が温かくなる。
「そういえばさ、その指輪っていつも嵌めてるけど、お気に入りなの?」
「お気に入りというより、思い出だよ。この指輪は、奏人さんと初めて会った時に嵌めてたものなんだ」
だから、つけているのだと柔い笑みを浮かべながら語った。
思い出の品だから大切にしているなんて、それだけで嬉しくなってしまう。
本当に、ケイが注いでくれる愛情は深い。
「下も……脱がせていい?」
外した指輪をベッドサイドテーブルに置いたケイが、聞いてくる。
「そういうことは、言葉にしなくてもいいんだよ。ケイの好きなようにすればいい」
全て任せると言うと、うん、と静かに頷いた男の手が伸びてきた。
やはり見知った相手に裸を見られるのは、恥ずかしい。が、すぐに今からケイと繋がれる喜びの方が勝った。
「奏人さん、大好き……」
言いながら最初は額にキスを、続いて頬に、首筋にと何度も繰りかえしながら、唇を下に下ろしていく。
「んっ……」
唇の重なりから覗く舌先に肌を舐められると、その感触に思わず小さな声が零れた。快楽に弱い身体は、こんな些細な感触にも反応してしまう。下腹部だって、もう既に自分でも分かるぐらい硬くなっているのが分かった。
「ごめん……ケイ、俺……」
「どうしたの?」
「まだ何もしてないのに、こんな……」
はしたない男だと思うだろうか。心配してケイの顔を覗き込むと、フフッと嬉しそうな笑いが降ってきた
「別に謝ることじゃないよ。ボクだってホラ」
ケイがわずかに腰を動かす。と、硬くなった奏人の肉芯に、同じように硬くなったケイの雄が触れた。
「奏人さんと一つになれるって考えたら、嬉しくて……」
少し照れ臭そうにはにかむ。その姿に、奏人は感じているのは自分だけではないのだと安堵を覚えた。
「そっか。じゃあ、一緒だね」
「そうだね」
額をくっつけ合って笑う。けれど胸の突起を弄る指の動きは止まっていなくて、奏人はまた熱い吐息のこもった声を零した。
「ん……はぁ……」
「気持ちいい?」
「ん。でも……俺は早くケイと繋がりたいかな……」
約束の期限が迫っているからか、それとも身体が熱を求めているからか。分からないが、奏人の身体は一分一秒でも早くケイと一つになりたいと願っている。その気持ちを言葉にすると、ケイは驚きながらもすぐに承諾をくれ、サイドテーブルの引き出しから小さな紙袋を取り出した。
「それ……は?」
「ローション。いつでも奏人さんとできるように、用意しておいたんだ」
他にも、男同士のセックス経験のないケイは、この日のためにと全ての手順を調べておいたと得意気に言う。奏人がいつその気なるかなんて、分からないのにも関わらず、だ。
「何それ、俺とする気満々だったの?」
「いつか必ず頷かせるって、決めてたから」
揺るぎない自信を見せつけられ、唖然としてしまう。が、胸の鼓動はいっそう高まった。
「もう……ケイには敵わないな……」
そんなところが、奏人の心を救ってくれるのだが。
笑っていると、開封したローションで濡らした指で急に触れられ、肌がビクリと震えた。ケイの体温で特有の冷たさを失ったローションは、肌に触れても違和感を覚えない。しかし濡れた指で肌を撫でられると、その感触にまた官能を刺激されてしまった。
「あ……ん……」
腹の辺りで遊んでいた指がゆっくり下方へ滑り、辿り着いた奏人の肉芯に絡みつく。すると、一瞬で硬さを帯びた熱は天高く反り上がってしまった。
その後も、ケイの指はローションを足しながら形をなぞるように丁寧に扱き続ける。
「ね……奏人さんの一番感じてる時の顔、見せて」
「え……?」
どういう意味だろうか。問おうとした瞬間に、肉芯を扱く指の動きが早くなった。
射精を促す動作に、奏人はケイの言葉の意味を悟る。
「やっ、ん、ケイ、ダメっ……」
達している時の顔なんて、きっと想像以上に酷いものだろうから見られたくない。咄嗟に顔を腕で隠そうとしたが、行動を読まれ顔と顔の距離を詰められる。
「隠さないで。綺麗な奏人さん見せて」
腕で隠せないほどの近距離で顔を見つめられ、逸らすことができない。その内に指の動きがさらに速度を増し――――。
「ふ……ん、あぁっ!」
隠す術なく、奏人は熱を放出してしまった。
勿論、絶頂を迎えた瞬間の顔をむざむざと晒して。
「はぁ……も……っ、どうし……」
射精後の軽い脱力感に抗いながら、ケイを叱責しようとする。しかし、目の前にあったのは先程よりも男の欲をさらに濃く宿した瞳で、思わず言葉を飲みこんだ。
何度も彰文の相手をしてきたからこそ分かる、欲望に染まった本能の目。こうなってしまったら、説教なんて全く通じない。今のケイに、理性なんて指先ほどしかないのだから。
でも、達する姿を見て欲情してくれるのは、正直嬉しい。そして奏人の身体は、相手がこうなることを求めている。
自分を抱く相手が本能の塊になればなるほど、自分は最上の快楽を味わうことができるからだ。
「ケイ……いいよ、おいで」
そっと足を広げ、ケイを受け入れる体勢になる。
「でも……」
このまま準備なく繋がってしまえば、奏人を傷つけてしまう。その心配をしているのか、ケイが中々動こうとしない。
「大丈夫だよ。俺はちょっとのことじゃ傷つかないから」
迷うケイの首に腕を絡め、引き寄せて抱きしめる。と、肩口に触れたケイの頭が、フルフルと横に震えた。
「ダメ……ボクにとって、奏人さんは宝物だから……傷つけたくないよ……」
身体を震わせ、必死に本能と戦いながらケイはゆっくりと指を奏人の後孔へと伸ばす。それからたっぷりとローションを絡め、柔らかな場所を傷つけないよう、指先で丹念に開き始めた。
それは奏人にとって焦れったいぐらいの愛撫だったが、ケイの深すぎる愛情に胸がいっぱいになる。
「ぁ……んっ……や、そこ……」
しかし、さすが奏人のためにと男同士のセックスを勉強しただけはある。ケイの指は動きこそ慎重だが、的確に官能を刺激した。無理なく指を奥まで沈ませ、二本、三本と増やし、反応を見ながら気持ちがよくなる場所を探り当てる。
そのせいで、奏人の熱はあっという間に引き戻された。先程出したばかりだというのに、後ろを弄られることで肉芯が、再び硬さを取り戻す。
「願……もう……ケイの……」
この熱を最高の状態で解放させるために、疼いてたまらない身体の奥をケイの熱で突き上げて欲しい。ケイの耳朶を甘く噛みながら挿入を願う。
「うん。じゃあ、苦しかったら言ってね……辛い思いはさせたくないから……」
こちらを見る瞳は、既に雄の色しか宿していないというのに、それでも奏人を案ずる言葉を紡ぐ。
「辛かったら必ず言うから。だから……お願い……」
「じゃあ……入れるよ」
ケイに足を大きく開かれる。そして程なくして待ち侘びた熱が、奏人の濡れて蕩けた後孔を押し広げ、中へと侵入してきた。
「あ……ぁ、あ……」
ヌプヌプと卑猥な音を立てながら襞を広げていく感覚に、自然と歓喜の声が零れた。
理性が快感に侵食されていく。
けれどその中で、ふと奏人は自分の知るセックスとは違う何かがあることに気づいた。
彰文に組み敷かれている時も快楽はあるものの、今とは全然違う。言葉にすると難しいが、簡単に言えばケイの熱の方が、彰文よりも何十倍も気持ちがいい。
「ふ……っ、んぁ……ケイ、すご……気持……っいい……」
「本、当……?」
「うん……やっ、そこ……もっと……」
ゆるりと腰を引かれ、また深くまで刺される。それは最初、酷く緩慢なものに感じたが、一つ突くごとに動きが早くなり、さらに感じる部分を的確に擦り上げるため、すぐに声が抑えられなくなった。
「あん……ぁ、ん、ふ……ぁ、はっ、んぅんん……!」
予想以上の快楽に、理性が全く働かない。
本当にケイは男同士のセックスでは初心者なのだろうかと、疑いたくなるほど上手に悦びの淵へと落とす。
やがてケイの腰の動きは完全に雄の本能そのものとなり、欲のまま突き上げるようになると、奏人は完全に羞恥を手放した。
「んぁっ、あ……っ……いい、ぃいっ、きもち、ぃいっ」
もう何も考えたくない。頭を、身体を、全てを支配する快楽に奏人は甘い嬌声を上げ続ける
そして訪れる、享楽の最終地点。
「ひっ、く、ぁ、っあああぁ――――……っ!」
ドクンと大きく心臓が跳ねる感覚とともに、内側から滾った熱が込み上がり、白濁を撒き散らしながら爆ぜる。その瞬間、頭が完全に真っ白になった。
「奏人さ……っ……」
衝動に続いて、腹の奥にケイの濃厚な熱が流れこんでくる。
「あ、あ……ぁ……」
腹の奥が灼けそうになる感覚に、開いたまま閉じられない唇が小刻みに震え、奥から擦れた声が漏れ続けた。
身体中が満たされるというは、きっとこういう状態のことをいうのだろう。ケイの愛も欲も全て取り込めたことに、心身が歓喜している。
「大丈……夫?」
欲情を吐きだしたケイが腰を引き、奏人の中から出ていく。
「ごめんね、中で……」
「ん、へ……いき……嬉し……よ」
未だ快楽の世界に浸りながらも、何とか笑顔を向けると、ケイも嬉しそうな顔をしてキスを落としてくれた。
「やっと、奏人さんと一つになれた」
優しく囁きながら、ケイが身体の様々な場所にキスを落としてくる。
甘い吐息の混ざった感触に、また奏人は喜びに震わされた。
しかし、同時に襲ってくるのは途轍もない寂しさ。この極上なまでの幸せを、短い間とはいえ手放さなければならないと思うと、辛くて堪らない。
「ね、少しくっついてもいい?」
キスを続けるケイの腕を柔く掴み、抱擁を求める。ケイは勿論だと言って長い腕で、全てを包み込むように抱きしめてくれた。
奏人は胸の中でそっと目を閉じ、ケイの体温を記憶に刻みこむ。
この腕の温もりを忘れないように。辛くなったら、今夜のことを思い出せるように。
そうしたら少し楽になったのか、奏人の中にまた、頑張ろうという気持ちが戻ってきた。
全ては、ケイとの未来を掴むため。
決して負けないと、再度決意した。
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早朝の空気は爽やかなのに、気分はどん底だった。
逃げ出したい気持ちを何とか押さえこみ、一人でケイの部屋を後にした奏人は、恐怖で立ち止まりそうになる度、手の中のシルバーリングを見つめた。
この指輪は、昨日までケイの指にはめられていたもの。今もまだ部屋で眠っているケイに黙って、持ってきてしまった。
何も告げずに出ていく上に、無断で持ち出してしまったことは申し訳ないと思っている。が、今の奏人にはどうしても必要だった。指輪を借りるということは、必ず返さなくてはいけないということ。その義務を果たすことを、また一つ心の支えにしたかったのだ。
指輪に今一度勇気をもらい、一歩ずつ進む。そのままマンションのエントランスを出た時、ふと人の気配を感じた。
瞬間、奏人の顔が強張る。
何故かは分からないが、姿を見なくても気配の正体を直感で悟ってしまったのだ。
「彰文さん……」
ゆっくり視線を上げながら、彰文の名を呼ぶ。どうしてここにいることが分かったのかなんて、聞く必要もないだろう。
「約束は昨日までだったが、最後の別れを惜しんでいたということで大目に見てやる」
「彰文さん」
「さっさと行くぞ。車に乗れ」
「待って下さい、彰文さん! 俺の話を……」
彰文を引き止めて説得を試みるが、振り返った時に向けられた刃のごき眼光に、奏人は一瞬たじろいでしまう。
しかし、それが失敗だった。
「まだ我が儘を言うつもりか? 先に言っておくが、お前の部屋と荷物は昨日のうちに片づけて処分した。どうせ出してないだろうから、会社のほうにもお前の名前で退職願を送っておいた。もう、お前に戻る場所はない」
「なっ……」
矢継ぎ早に残酷な現実を突きつけられ、言葉を失った。
退路を全て断ったうえで立ちはだかる。彰文の本気を見せつけられた奏人は、それ以上説得の言葉を形にすることができなかった。
「それでも駄々を捏ねるというのなら、二度と外に出たくなくなるような思いをすることになるぞ」
言葉を失っているところで腕を掴まれ、強引に引っ張られる。足をもつれさせながら前に進む途中、何度か転びそうになったが何とか踏み止まり、掌に隠している指輪だけは守った。
まだ、勝てない。
悔しさを覚え、唇を噛む。けれど、すぐに昨晩のことを思い出して気を引き締め直した。
時間はかかるかもしれないが、必ずケイの下へ――――自分の居場所に戻ってみせる。奏人は負けないという意気込みを瞳に宿し、その場を後にした。
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