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第11話:身代わりの偽愛

 奏人が十二歳から大学卒業まで過ごした部屋は、至極簡素なものだった。  二十畳はある広々とした部屋なのに、室内にある家具は勉強机と本棚、そして一人部屋にしては不自然なほど大きい、キングサイズのベッドのみ。  ここで過ごした記憶は、思い出したくないものばかり。だから、一刻も早くケイの下に帰りたい。その思いを胸に、奏人は今日も彰文に食らいついていた。 「俺の話を聞いて下さい!」 「また、その話か……」  奏人にうんざりといった顔を見せながら、彰文が溜息を吐く。 「大切なことですから、ちゃんと聞いてくれるまで何度だって言います。彰文さんが心から必要としてるのは、俺じゃなくて母さんだ! だからこんなことをしても意味がない。貴方だって、気づいてるはずです!」  言い放つと、目前の男の双眸が細くなった。  恐らく今、男の脳裏には奏人の母、久住美菜の姿が過っていることだろう。  彰文と美菜は老舗の料亭グループを営む一族に従兄妹同士という関係で生まれ、結婚の約束を交わしたほどの恋仲だった。  しかし、経営方針の違いから親同士の関係が悪化、さらに美菜の父が事業に失敗したことから絶縁状態となり仲を引き裂かれた。特に彰文は本家の跡取りだったこともあり、親族が総意で許さなかったそうだ。  そしてその後、美菜が父の会社を救った男性からの縁談を受けたことで、二人の関係は完全に終わりを告げる。  ただ、それでも彰文の愛は途絶えなかった。彼は美菜の結婚後も他の女性に目を向けることなく一途に想い、彼女の生活全てを見守り続けた。  そんな状況に変化が訪れたのは、奏人が中学に上がった頃。当時、奏人の父が家庭内暴力をはじめたことがきっかけだった。  毎日、理由も言わないまま美菜を怒鳴りつけ、手を上げる。それを止めに入った奏人も殴られ、ある日、とうとう入院するまでの騒ぎになってしまった。  その時、奏人達に救いの手を差し伸べたのが、彰文だったのだ。  それから始まった、彰文との生活。その中で二人の過去と彼のひたむきさに触れた奏人は、無償の愛というものが本当に存在することを知り、心底驚かされた。  母には父という相手がいる。それでも彰文に対して嫌悪感など一切覚えない。いや、それどころか、逆に彼の想いを否定することが間違いだとすら思えたほどだ。  しかし―――。 「なのに俺をずっと母さんの代わりにしていたら、彰文さんは一生前に進むことはできない! そう思ったから、俺は貴方の下から離れたんです!」  そう主張すると、彰文はあからさまに苛立ちを顔に表してこちらを睨んできた。 「俺が前に進めない? それなら逆に聞くが、俺が前に進んでどうなる!」  強い口調で問われ、勢いを削がれる。 「お前を解放して美菜が戻ってくるなら、いつでも自由にしてやる。だが、そんなことには絶対にならない。美菜は……俺から離れるために、お前すら捨てたぐらいだからな」 「っ……」  辛い過去を掘りかえされ、胸の中に苦しい震えが起こった。  だが、ここで負けるわけにはいかない。 「だとしても、こんなやり方は間違ってる! 事実、俺を母さんの身代わりにした八年の間、貴方の心は一度だって満たされなかったじゃないですか!」 「奏……っ……」  図星を突かれたからか、彰文の表情がみるみると焦りと苦しさを含んだものに変わった。  呼吸が浅くなり、心なしか額に汗も滲み出ている。  彰文を攻めるなら、今かもしれない。  時機を捉えた奏人が、話を続けようとする。  しかし口を開こうとした瞬間、奏人は逞しい腕に抱きしめられ、そのまま広いベッドの上へと押し倒された。 「う……っ……」  二人分の体重を受け止めたスプリングが鈍い音を立てて軋む。しかし彰文の身体が覆い被さってきた割には、強い痛みや衝撃を感じない。 どうして、と目線だけで状況を確かめると、驚くべき光景が映った。  彰文の両腕が、奏人の身体を衝撃から守るように包みこんでいたのだ。 「彰文さ……」 「…………み、な……」  耳元で、母の名が小さく呼ばれる。 「っ!」 「美菜……美菜……」  それは、つい数秒前の威圧的な物言いが信じられないほど弱々しい声だった。  きっと今の彰文を見たら、誰もが奏人の形勢逆転を確信するだろう。 けれど、状況は全く逆だった。  今、この刹那に、奏人は全ての説得を諦めるしかなくなったのだ。 「俺を……拒むな……美菜…………拒まないで……くれ」  まるで暗闇を怖がる子供のように、奏人を抱きしめながら全身を竦ませる男は、もう説得ができるような状態ではない。  「彰文さん……」  小さく溜息を吐く。  彼がこんな風に豹変するのは、今回が初めてではない。過去、もう何十回と見てきた。 原因は、美菜の失踪だ。  美菜は彰文に奏人を預けてから三年経ったある日、何も告げないまま父と共に姿を消した。  それを知った瞬間に、彰文は「美菜に拒絶された」と嘆き、心を壊してしまったのだ。  それほどまでに強く、そして異常な愛。 「美菜……もう、二度と俺を……捨てないでくれ」  奏人を抱きしめながら美菜の名を呼び、全身を震わせる。  その身体を、奏人は何も言わずに抱き返すと、彰文がようやく顔を上げた。 こちらに向けられた顔は安堵に包まれた、幸せそうな顔だった。 「美菜、愛してる……俺にはお前だけだ……」  何度も繰りかえされる、愛の囁き。けれど彼の目に映っているのは自分ではない。  それでも奏人は何も言わず、広い背中を撫でた。 それは奏人の中に怒りと同じだけ、彰文に対する感謝の念があったからだ。  あれは、奏人が引き取られた直後のこと。当時の奏人は父の虐待と、両親と離れる寂しさから憔悴しきっていて、精神的に不安定になっていた。そんな時、彰文はずっと寄り添ってくれたのだ。  食欲がないと言えば喉越しのよい物を並べるほど用意してくれ、眠れないと泣けば朝まで隣にいてくれた。外で気分が悪くなった時も、まるでこの世の終わりでも来たような顔で迎えにきたし、学校の行事には全て保護者として参加してくれた。  そう、彰文は父と母の代わりに、目一杯の愛情を注いでくれたのだ。  だからこそ彰文が心を壊した時、奏人は背を向けることができなかった。日に日に弱っていく彼が、やがて自分を母の代わりとして見るようになっても抵抗しなかった。  きっと、二人の歪な関係は誰に話しても理解なんてしてもらえないだろう。だが、あの頃は、その選択が正しいと信じていたのだ。  大学に入って、「このままでは、自分も彰文も前に進めない」と危機感を覚えるようになるまでは。 「美菜……俺を受け入れて……くれるか?」  奏人の頬を撫でながら母の名を繰りかえしていた彰文の唇が、不意に奏人の首筋へと降りてきた。 「んっ……」  強く吸われ、そして甘く噛まれ、眠っていた官能を強引に引きだされる。せめてもの抗いと撫でていた背中に爪を立ててみるが、シャツを巻き上げられ胸を弄られた途端に指が滑り落ちた。  今日の説得は、もう無理だろう。あとはもう好きなようにさせて、気分を落ち着かせた彰文が普段の姿に戻るのを待つしかない。 「ケ……イ……」  誰にも聞こえないぐらいの小さな声で、ケイの名を呼ぶ。そして、負けそうになる心をしっかりと繋ぎ止めた。  自分には絶対に失いたくない、大切な存在がいる。  だから何があっても諦めたくない。今日が駄目でも何度だって説得を繰りかえし、いつか必ず分かってもらう。  望んだ未来を掴むために。そして、大切な人と結ばれることが、どれだけ尊いことかを、彰文にも知ってもらうために――――。

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