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第4話

「ゴーちゃん。服、貸して。シャワー浴びてくる」  1LDKの部屋の真ん中で、ポケットから煙草と百円ライターを取り出し、テレビ前のローテーブルに置いた美緒が振り返る。ソフトパックの煙草とビニールカバーの間に千円札が挟まれていて、繊細な顔立ちからは想像できないぐらいにがさつだ。  ひとり暮らしの男の部屋に来て、早速シャワーを浴びたがるのも、がさつと言えばがさつだろう。男としては、誘っているんだろうと思いたくもなる。 「俺も一緒に入っていいか」  隣の部屋からスウェットの上下を持って出ると、受け取った美緒は眉をひそめた。 「狭いからヤダ」 「……狭くなかったらいいのかよ」  悠護の切り返しに、ふと黙り、 「……ダメ」  つんっとあごをそらして脇を抜けた。 「なんだよ、いちいち、かわいーっつぅの」  誘えば会ってくれて、高い食事をねだるわけでもなく部屋にも寄ってくれる。寂しいだけだとしても、嫌われてはいない。そう思えるから性質が悪いと、悠護は息をつく。  ダメとなにげなく言っただけの仕草に、うっかり反応した下半身が虚しい。ヤれない美人よりヤれる平凡がいいと、大阪にいた頃の知り合いは笑っていたが、ときめかない平凡よりはときめく美人の方がいいに決まっていると思う。 「俺って、マゾなのかもなー」  ぼやきながらベランダに出て煙草を吸う。しばらくして、髪を濡らした美緒から声がかかり、入れ替わりで悠護もシャワーを浴びた。  今日もどうせお預けだとわかっているから、水流の中で慰めきれない熱を収め、気持ちをフラットにしてシャワーを止める。 「美緒。そこ、座れよ」  Tシャツとハーフパンツに着替え、ドライヤーを持ってリビングへ戻った。  あごをしゃくってソファを示すと、寝転んで雑誌を読んでいた美緒が起きあがった。タオルで包んだ髪は、洗ったそのままだ。  ソファに座らせてタオルを解き、手ぐしで梳きながら髪を乾かしてやる。 「はー、極楽」  両膝を抱えた美緒はのんきだ。髪に指を絡め、悶々としている男の気持ちなど、微塵も考えないのだろう。わがままで身勝手で、だけど寂しがりやなところがたまらなくいい、と悠護は思う。 「気持ちいいだろ」  わざといやらしく問いかけたのに、 「うん。気持ちいい」  さらりと返されて、悠護はがっくりとうなだれる。  素直な声はどこか甘く、本当に気持ちいいのがわかるからせつなくなる。もっと気持ちよくさせてやれると言いたかったが、どうせ、望んでないと突っぱねられるのがオチだ。  無理やり話を続ければ、もう二度と会わないと脅される。 「髪、切りたいなぁ」  美緒がぼそりと言った。 「似合いそうだけどな」 「店から禁止されてんだ。和服のときに困るから。でも、洗うのが面倒なんだよ。店に出るといろいろ付けられるし、煙草の匂いもすごいだろ」 「じゃあ、俺が洗ってやるから、店終わったらここへ来いよ」 「マジでー。本気にするー」 「していいよ」  髪を撫で、指先を潜らせる。頭皮に風を当てながら、柔らかな髪を梳いた。 「俺と暮らしたらいい」  するりと言葉がこぼれ出た。うかつだと思っても、もう取り返せない。 「……無理だろ」  美緒がふっと笑みをこぼす。年齢に似つかわしくないニヒルさだ。 「結婚するまで、しないって決めてるから」 「……十六歳過ぎてれば、もう結婚できるんだぞ。親の承諾がなくても」 「二十歳越えてるって、何回も言ってんじゃん」 「嘘つくなって、言ってんじゃん。店には言わねぇよ」 「とにかく決めてるから。……待てないだろ?」 「待てる。……待つよ」  自分でも予想外の答えがするすると出てきて、悠護は奥歯を噛みしめた。なにを必死になっているんだと思ったが、どうしようもない。これが自分の本心だった。 「美緒。おまえさー、俺に惚れてるだろ」 「なに言ってんだよ」 「惚れてんだよ。そういうことにしとけよ」 「しとけ、って……なに様」  笑った美緒が振り返る。ドライヤーを止めた悠護は、そのあごにそっと腕を回してくちびるを近づけた。抵抗されずに、くちびるが触れ合う。  これはいいのか、と思う一方で、やっとキスができた嬉しさに胸が震えた。  悠護が童貞を捨てたのは十五の終わりだ。それからは普通に彼女を作ったし、浮気や遊びもしてきた。二十一歳にしては、かなり経験豊富な方だと思ってきたのに、こんなささいなやりとりでときめく自分の純情さがいまさら恨めしい。 「美緒」  真面目な声で呼びかけると、ふいっと視線が逃げる。 「ビデオ、見るんだろ」 「……いや、おまえさ。この展開で、それはないだろ」  ソファの背もたれを乗り越えて、美緒の隣に膝をつく。 「したそうで、しつこいから……」 「しつこくしたら、やらせてくれんのかよ」 「……ばかじゃねぇの」 「バカでいい」  手のひらで頬を引き寄せると、美緒の視線がそれる。でも、キスは許された。 「ん。……やめっ……」  舌を這わすと拒まれ、その手を掴んで引き下ろす。 「ダメだ。な?」  もう一度、今度は深くくちびるを合わせる。 「んっ……ふっ……」  決して委ねようとしない身体が硬直して、くちびるを重ねたままの呼吸はぎこちない。 「……ディープキスも初めて?」  鼻先を触れ合わせながら聞くと、真っ赤になった美緒の手がびくりと跳ねた。殴らせまいと強く握りしめ、もう一度短くキスをする。 「やだ……!」  胸へと伸ばした悠護の手を激しく払いのけ、逃げようとした美緒はソファの上へ仰向けに倒れた。 「触るなっ」 「……それもダメなのか」  「な、ないんだよっ」 「知ってる。気にしてたんだ」  薄手のシャツを着ればはっきりわかるほど、美緒の身体はスレンダーだ。貧乳とも呼べないほど、ふくらみがない。 「触ってもおもしろくない……っ」 「おもしろいから触るんじゃないだろ。……胸は小さい方が感じやすいって言うしな。自分で触ったことぐらい、あるんだろ?」 「あるか! そんなの……っ」  身をよじって逃げ出そうとする身体に覆いかぶさり、ぐいっと引き寄せて起きあがらせる。胸に抱いたまま、耳のそばにくちびるを押し当てた。 「ちょっとだけ、触らせて」 「……いや、だ」  膝を抱えるように小さくなった美緒が、首をかすかに振る。泣き出しそうな顔に気づいた悠護は、強引に迫れなくなった。しかたなく、その肩に腕を回す。優しく抱き寄せて揺すった。 「悪かった。ごめん」 「……もう、来ない」  伝家の宝刀を引き抜かれ、悠護は顔をしかめた。 「ごめん、って……。美緒。なぁ、美緒ちゃん」 「嫌だ。バカ」  怒っているのか、拗ねているのか。膝に顔を伏せた美緒はふるふると髪を揺らす。 「おまえだって、そのうちに、手だけとか、口だけとか言うんだろ」 「……そーいうやつが、いたわけか」  「言うんだろ」  悠護の質問には答える気がないのだろう。繰り返した美緒は、顔を少しだけ上げて、悠護をじろりと睨んだ。  きついまなざしに涙が滲んで見え、悠護は心の中で降参の白旗を振った。 「……言わない」  言えるわけがない。こうして腕の中にいてくれるだけでも奇跡のような関係だ。惚れたときから、もう負けは決まっている。

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