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第3話
するとそんな瑞貴に父親となる勝正から再び声をかけられた。
「そういえば、房江さんから聞いたんだが、瑞貴君は旧姓のままで通すということだそうだが……やはり苗字を変えるのに抵抗があるのかな?」
「いえ……その、もう大学も卒業して就職しましたし、いい大人なので、今さら苗字を変えても、周囲が混乱すると思って……」
実は母の再婚を機に、瑞貴の苗字も再婚相手のものに変え、新しい家族と同居する話が持ち上がっていた。
母の新婚生活を邪魔しないように、一人暮らしをしようと思っていた瑞貴には、できれば断りたい話だった。新しい家族と同じ屋根の下に過ごすにも気を遣うし、母の新婚生活を邪魔したくないという思いもある。
それに母の結婚には賛成だが、亡くなった父の苗字を手放すのも寂しい気がしたのだ。戸籍上は苗字が変わっても、通称だけでも父の苗字を残したいという気持ちも少しはあった。
「私たちと同居もしてくれないそうだね?」
義父となる男性が悲しそうに眉を顰める。
「ええ、そろそろ成人男性として自立しないと……と思っておりますので」
それは本当だ。
「一緒に暮らせないのは残念だが、立派な心がけだ。瑞貴君は見た目よりもずっと男気がある人なんだな」
残念がりながらも、義父は目を細めて褒めてくれた。
「もう、この子ったら口ばかり達者で……あ」
ふと、母のスマホが控えめながら鳴った。看護師長としては、普段からもスマホ付帯が義務づけられており、たとえオフの日でも電源は必ず入れておかなければならないのだ。
案の定、電話は病院からのものだった。
「ごめんなさい、勝正さん。仕事先から電話が……」
母は電話の相手を確認すると、勝正に申し訳なさそうに視線を送った。
「早く出なさい。房江さんの仕事は人様の命を預かっている大切な仕事だ。ささ、早く電話に出てあげなさい」
勝正は慌てて立ち上がると、瑞貴の母の背中を押し、電話をするために個室から出ていってしまった。
この場の主役であるはずの母や義父が席を外してしまった途端、瑞貴はとんでもない場所に置き去りにされたことに気づく。
な……まさかヤクザの中に僕一人、置き去り!?
将来の家族とはいえ、二人のヤクザの前に座らされる経験は、できればしたくなかった。こんな経験、普通のサラリーマンが真面目に生きていたら、絶対ないことだ。
ただでさえも緊張しているのに、緩衝材となっていた二人が席を外してしまっては、瑞貴には頼るべき相手もいない。まさに今、ヤクザとタイマンを張っていると言っても過言ではなかった。
ど、どうしよう……。な、何か話さなきゃ。
一対二の状況で、初対面の他人同士。でもこれから家族になる人間で、しかし共通の話題もない。オマケにヤクザという特殊な職種の義兄たちに、何を話したらいいのかもわからなかった。
同世代なら共通の話題も見つけやすいが、同世代とは言いがたい年齢差である。
瑞貴が二十二歳に対して、長男である敏晴は、三十六歳。次男の雅弘は三十二歳だ。これだけ歳の差があると、好きなアイドルだって違うはずだ。いや、この端整な顔つきの義兄たちが、アイドルが好きだなんて、そんなギャップを持ち合わせているはずがない。
長男の敏晴は、バランスの良い体躯を仕立てのいいスーツに包み、眼鏡の似合うきりりとした涼しげな容貌だ。ストイックで且つ、理性的な雰囲気を漂わせ、とてもヤクザの組長を継いだようには見えないし、アイドルの音楽を聴くようにも思えない。
一方、次男の雅弘は、髪をやや明るめに染め、どこかの老舗のテーラーで仕立てたような一流のスーツを着ていた。甘いマスクのせいか、華やいだ雰囲気を持ち、アパレル関係のオーナーと言われれば、頷けるような容姿であった。だが、双眸だけは鋭く、カタギの人間とは言いがたいオーラも放っていた。
こんな義兄たちと本当に上手くやっていけるんだろうか……。
瑞貴は内心、冷や汗をかきながらも、目の前のお茶に口をつけた。早く母親が戻ってくることを切に願うしかない。
「なあ、瑞貴」
しかし無情にも神様はいなかったようだ。何事もないように祈っている中、いきなり次男の雅弘が、男の色香が漂う笑みを唇に浮かべながら声をかけてきた。その口調は砕けたもので、母に対して使っていた言葉遣いとは違っていた。
瑞貴は慌てて顔を上げて、雅弘の方へ視線を移した。彼と視線がかち合い、ついビクリと躰を揺らしてしまう。
「俺たち、義兄弟になるんだから、瑞貴って呼び捨てしてもいいよな?」
女性ならすぐにでも虜にしてしまいそうな笑みの中に、危険な香りがぷんぷんとする。瑞貴はゴクリと唾を飲み込んでから、返事をした。
「は……はい」
歳もかなり上であるし、義兄になるのだから、呼び捨てされても構わないし、いいよなって聞かれれば、『はい』としか答えようがない。
顔が強張りそうになりながらも、瑞貴が雅弘を見つめていると、従順な瑞貴に満足したのか、雅弘は軽く頷き、さらに言葉を続けた。
「お前さぁ、自分の立場、わかってるのか? 関東で勢力を持つ指定暴力団、真正(しんせい)会の二次団体、簗木組の組長の家族になるんだぞ? 名前を別姓とかありえないだろう」
「ありえない、です……か?」
そう言われても、よくわからないのが瑞貴の本音だ。
「簗木って名前に護られていないと、お前くらいの奴はすぐにバラされるぞ」
「別に正体をばらされても平気ですが……」
「意味が違う。殺されて死体をバラバラにされるってことだ」
「ひっ……」
瑞貴が息を呑むと、雅弘の隣に座っていた長男の敏晴が間に入ってきた。
「雅弘、あまりカタギの人間を怖がらせては駄目だぞ。でも……まあ、私たちの傍をうろついているくせに、苗字が違うのも多少は問題だがな。情報もまともに得られない莫迦な輩に、私たちに気に入られている下っ端じゃないかと間違えられて、お粗末な仕打ちを受ける可能性もなきにしにもあらずだ」
「お粗末な仕打ち……」
具体的に想像はつかないが、怖そうだ。
「あと、同居もお前のことを思っての提案だ」
雅弘が面倒臭そうにまた話し始めた。
「俺たちはお前が一緒に住もうがどうでもいい。だが、お前が一人暮らしをするとなると、襲撃されたときに対処がしにくい。義理とはいえ弟があまりスプラッタな死に方をしても、俺たちの夢見も悪いからなぁ」
襲撃される?
――だ、誰が、誰にっ!?
恐ろしい単語に、躰がぶるぶると震え、瑞貴の思考能力が一瞬止まる。順風満帆とは言いがたくても、世間一般並みに生きている瑞貴にとって、何もかもが別世界の話だ。
「万が一、一人暮らしとなっても、セキュリティーが万全で、ボディーガードをつけての一人暮らししか親父も許可しないだろう。だが素人のお前じゃ、それでも危険だろうけどな」
「な……」
なんだか恐ろしいことに巻き込まれそう、というか巻き込まれてしまったことに、改めて気づかされる。
「大体、お前、ハジキの撃ち方も知らないだろう」
し、知るわけありませんっ!
瑞貴は恐ろしさに声が出ず、思い切り顔を左右にぶんぶんと振った。
これは母の再婚、おめでとう、俺は別姓&別居でこれから生活していくよ、くらいでは済まされない話であることに、瑞貴はようやく気づき始めた。
ちょ……ちょっと待って!
母に問いただしたい気持ちでいっぱいになるが、肝心の母は電話で席を外している。
「命が惜しければ、苗字も簗木にして、簗木の本家に一緒に住むのが妥当だろうな。そうすれば滅多なことでは襲撃されないし、俺たちや組のモンの目も届くから、危険な目に遭うことも少ないだろう」
少ないだろうって、ゼロじゃないんだ!
雅弘の嘘みたいな話に、隣の敏晴もその通りだとばかりに黙って頷いている。そんな彼らとこうやって一緒にいるだけで危険な気がするのは瑞貴の考えすぎか。
とにかく少しでも彼らと離れて日常を暮らしたい瑞貴は、精一杯抵抗した。
「あ、あの! でも……警察もいるし」
「あ?」
雅弘の目が光る。途端、ヘビに睨まれたカエルの気持ちを、身をもって知る瑞貴である。
しまった……。もしかして警察ってヤクザの天敵?
己の失言に気づき、またもや肝を冷やす。だが、目の前の雅弘は双眸を細めると、優しい声で囁いてきた。
「お前さぁ、国家の犬なんかに頼るなよ、な。たとえ義理とはいえども、簗木の人間になったんだから、そこんとこ覚悟しとけよ? ん? わかったな」
優しく言われているはずなのに、瑞貴の背筋が自然と恐怖で震えた。
どんな覚悟ですかっ、そんなの嫌です!
心の中だけで大きく訴える。
「まあ、俺たちの新しい母親にあまり心配をかけさせるなってことだ。お前が一人で住むなんて言ったら、お前のお袋さんが悲しむぞ。親より子が先に死ぬってのは、最大の親不孝だからな」
「な、なんで俺が先に死ぬって決めつけるんですか?」
震える声で、やっと口を開くことができた。
「あ? ああ、統計ね。その確率が高くなるってこと」
どんな統計だ、と突っ込みたいが、この義兄相手に突っ込む勇気はもちろんない。
「そういうことで、瑞貴、お前は簗木の名前を名乗って、本宅で一緒に住むんだ。わかったな」
「わかったな……って、そんな横暴な」
瑞貴が抗議しようと声を上げると、それまで黙っていた長男、敏晴が理性的な風貌を崩すことなく、話しかけてきた。
「瑞貴、私たちをあまり怒らせないほうが賢明だぞ。新しくできた義弟を、これから可愛がっていこうと私たちは努力しているし、大切にするつもりだ。だがあまり聞き分けがないと、それなりに対処させてもらう。わかるかい? この意味が。大学を優秀な成績で卒業した瑞貴には、きちんと理解できるはずだよな?」
「できるよな? 瑞貴」
二人から笑顔で尋ねられ、瑞貴は首を縦に振るしかなかった。それ以上、何ができようというのだ。
か……母さん、相手がヤクザって、本当にわかってるよね?
己の母が理解できない瑞貴である。
「席を外してごめんなさいね」
そこにようやく母が勝正とともに戻ってきた。
「電話で指示をすれば済むことだったので、どうにか収まったわ」
「さすがは房江さんだ。いつでも必要とされているのは素晴らしいことだよ。それにあのテキパキとした指示、私は惚れ直したよ」
「まあ……勝正さん」
母が頬をポッと赤くして目を伏せる。勝正は勝正で、まるでお姫様でもエスコートするかのように、母を丁寧に席へと誘導した。
あまりのラブっぷりに目も当てられないが、それは義兄たちも同じらしく、みんな視線を外して二人を迎えた。
母のこんな姿を見ているだけだったら、瑞貴も安心するのだが、いかんせん他が悪い。問題が山積みだ。頭を抱えていると、突然次男の雅弘が口を開いた。
「ああ、お義母さん。今、瑞貴君と少し話していたんですが、彼、簗木の名前を名乗ってもいいそうですよ。それに俺たちとも一緒に住んでくれるそうです」
え?
瑞貴が、帰ってきた母に気を取られているうちに、次男の雅弘が、勝手にそんなことを言い出した。変な誤解が生まれないうちにと、慌てて否定する。
「まだ……それは……き……」
「まあ、そうなの? 瑞貴」
だが瑞貴が否定するよりも早く、母が嬉しそうに声を上げた。
「母さん、お前が一人暮らしをすることに、少し不安があったのだけど、一緒に暮らせるということなら、安心だわ。何しろ勝正さんの稼業が稼業だし」
か……母さん、やっぱり理解してるんだ!
すべてがわかっていてヤクザと結婚しようとする母を天晴れと言うべきなのか。
「しかし、瑞貴君、この息子たちに無理やり言わされたとか、そういうことではないのかい?」
さすがはこの義兄らの父親だ。自分の息子の性格をわかっているようで、心配げに瑞貴を見つめてきた。だが、それに答えたのは瑞貴ではなく、雅弘だった。
「親父、違うようだぜ。瑞貴君は俺たちに遠慮していたらしい。大学を卒業し、就職もしたような自分が、自立せずにのこのこ母についていっては申し訳ないって言ってね。そんなこと気にしなくいいって、今、兄貴と二人で説得したら、彼もぜひ一緒に住みたいって言ってくれたんだ」
『ぜひ』だなんて、誰もそんなこと、一言も言ってません!
「だから……」
断固として認めないとばかりに口を開けると、今度は母が瑞貴の言葉に被せてきた。
「ありがとう、瑞貴。母さん、嬉しいわ」
え?
涙声の母に振り返ると、隣で急に母がハンカチで目頭を押さえ始めた。
「これで、家族五人で新しい門出を迎えることができるわね。やっと瑞貴に家族らしい温かさや環境を与えてあげることができるわ」
「か、母さん……」
仕事が忙しいのもあり、母親らしいこともできずに瑞貴に苦労させたと、母が負い目を感じているのは知っている。そんなことはないのに、母として、もっと家庭的なことを瑞貴にしてやりたかったようだ。それが災いしてか、義兄の嘘の話に感動して、滅多に見せない涙を見せてきた。
ど、どうしたらいい――?
義兄らの嘘くさい笑みと母の愛の涙。または前門の虎、後門の狼とでも言うのだろうか。逃げ道を完全に塞がれたような気分だ。
瑞貴が半ば放心状態になっていると、横からまた会話が始まった。
「房江さん、祝言の件だが、本当に来月で大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「来月っ!」
思わず瑞貴は声を上げてしまった。他の四人全員が瑞貴に視線を注いでくる。特に義兄二人の視線は鋭かった。その視線だけで殺されそうな勢いである。
「あ……あの、俺、聞いてなかったもんですから」
「ごめんなさい、瑞貴。あなたが就職活動で忙しそうだったから、なかなか言えなかったのよ」
母が笑って謝ってくるが、瑞貴には笑えない事実だった。
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