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第5話
簗木の本宅は、閑静な住宅街にある。近隣住民に不快感を与えてはならないという先代からの教えにより、組の者は本宅の門の中まで直接車で入れるようになっていた。公道でいかつい姿を見せて、住民をむやみに怖がらせないように配慮しているのだ。
さらに組の若い者を、強制的に町内清掃やゴミ当番などに参加させ、地域への貢献を欠かさないようにしている。地域あっての我々だと、昔からの任侠道を通しているのがここ、簗木組であった。
檜造りの立派な門をくぐり、瑞貴を乗せた車は本宅へと帰ってきた。
千坪近い本宅は、都心にしてはかなり大きい純和風の屋敷だ。
ほんの半年前までは、築三十年以上の中古マンションに母と二人で暮らしていた瑞貴にとって、ここが我が家だと言われても、なかなか落ち着かない。
未だ緊張しながら玄関に入る。やっと落ち着くのは、瑞貴のために用意された十畳の私室だ。ここが一番落ち着く。それでもここに来る以前にマンションで使っていた四畳半の部屋よりもはるかに大きい。
そのため部屋の広さに慣れず、部屋の真ん中より、壁際にもたれてテレビを観るのが何よりも至福を感じる庶民である。真ん中より端っこが好きなのだ。
お陰で家具が全部隅に寄ってしまい、真ん中がぽっかりと開いた、バランスの悪い部屋になってしまった。
俺、子供の頃から小さい部屋に住んでいたから、そう簡単には大きな部屋に馴染めないんだよな……。
自分の部屋に入って、溜息をつきつつスーツを脱ぎ始める。すると、少しだけ廊下が騒がしくなった。誰かが来たようだ。
「瑞貴、入っていいか」
次兄の雅弘の声だ。
「あ、はい。ちょっと待っていてください」
瑞貴は慌てて部屋着に着替えると、ドアを開けた。
「雅弘義兄さん、何か」
瑞貴がドアを開けた途端、雅弘が部屋へと入ってきた。
「義兄さん……?」
大人になってから義兄弟ができるのは、どう距離を置いたらいいのかわからない分、難しい。それが一つ屋根の下に暮らすとなると、気苦労も倍増だ。
家族になったのだから他人とはいえないが、かといって、気安く話すのも躊躇する。歳の離れた義兄となると言葉遣いも考えるところだ。
瑞貴がどうしたらいいのか、あたふたしていると、雅弘がその甘いマスクとは裏腹に、鋭い双眸を向けてきた。
「加藤から聞いたが、お前、迎えはいらないなんて、えらそうなことを言ったそうだな」
「え、えらそうなことって……。あの、別に俺は一人で会社に行けますし、送り迎えなんて、子供じゃないんですから、必要ありません」
いい歳して、会社まで送り迎えなどしてもらいたくない。満員電車に揉まれて通勤したほうがどれだけ心の負担が少ないか。それにいかにもヤクザという男たちに囲まれている自分が、他人から見てどう映るかも、考えるだけで頭痛がしてくる。
だが目の前の男はそんな一般庶民の瑞貴の悩みなどお構いなしに、話を続けてきた。
「ちんぽに毛も生えてないような面して、よくえらそうなことを言うな」
「ななな……何をっ、俺は立派な成人男子です!」
「ふん、危険察知能力は子供どころか、お前なんか赤ん坊並みだろう」
「赤ん坊並みって……少なくとも、俺だって自己防衛くらい人並みにします」
「自分の命の守り方も知らないやつが何を言う。まったく、これ以上厄介事を増やすな。ただでさえも親父が色ボケして、尻拭いに大変なんだ。お前はせめて俺たちに迷惑をかけないように言われた通りにしていろ」
「そんな頭ごなしに言われて、はい、なんて素直に頷けません」
「何?」
雅弘の瞳に険しさが増す。だが瑞貴も負けていられない。じっと雅弘を見つめ返した。
自分にも譲れないところがあると、義兄にわかってもらいたい。それにこれからずっと頭から押さえつけられて生きていく人生なんて真っ平だ。
目を逸らしたくなる衝動に駆られながら、意地で雅弘を見つめ続けていると、彼の手が動いた。殴られるっ、と思って目を瞑った瞬間、彼の指が瑞貴の顎を持ち上げてきた。
「ふーん、綺麗な面しているのに、見かけによらず根性あるな。さすがは房江さんの息子ってところか?」
「顔と根性は関係ありません」
怖くて震えそうになる躰を、気合を入れて踏ん張る。義兄に対して怖がっていたら、これから先、一緒に暮らしていけない。ここはどうにか留まらないといけないところだ。
「まいったな、ったく」
だが、瑞貴が緊張しているというのに、ふと雅弘の睨む視線が緩み、そんなことを呟いた。なんだろうとこちらも気を緩めると、いきなり彼の唇が瑞貴の唇に重なる。
「うっ!?」
反射的に雅弘を殴ろうとしたが、軽くかわされ、唇が離れる。
「おいおい、これくらいで殴られたら、俺は殴られ損だぞ」
まるで大したことのないように告げてくる雅弘に思わずムッとする。
「こ、これくらいって、充分殴られる価値があると思います。それに損だと思うなら、こんなことをしないでください」
「黙ってされるお前が悪いんだろうが。食ってください、尻を洗って待ってました、なんて顔して見つめやがって。こっちにだって我慢にも限界があるぞ」
「な……尻って……」
どこにどう文句を言ったらいいかわからない。彼の言葉すべてが理解できない。もはや未知との遭遇、宇宙人である。いや、もしかしたら、これは何かのテレビ番組のどっきりで、どこかに隠しカメラがあるかもしれない。
思わず、周囲をカメラがないか探してしまった。だが雅弘はそんな瑞貴にお構いなしに口を開く。
「大体、瑞貴、お前の危険察知能力、及び自己防衛能力が劣っている証拠だろう?」
「なっ……」
誰が男の……しかも義兄にキスされるなんて予測するだろうか。
「ど、どうしてキスなんかするんですかっ!」
「どうしてって……お前があんまり可愛い顔をするからだろ」
「か……か、可愛いって、なんですかっ!」
瑞貴が怒鳴ると、雅弘がニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。まさにエロ親父がろくでもないことを考えている表情とでもいうのだろうか。
瑞貴はどんなことを言われても、対処できるように身を構えた。案の定、目の前の男は口を開くなり、莫迦なことを喋り始めた。
「なんで可愛いか、か……。まあ、俺に抱かれたくて仕方ないって感じがありありとわかって、初々しくて可愛いってことか? ほら、抱いて、抱いてって訴えられると情が湧くし、俺は『据え膳は食う派』だから」
「な、ななななっ、何が食う派ですかっ! 威張って言うなっ。大体、抱いて……ってなんですかっ。誰もあなたに抱かれたいなんて思ってもいないし、あなたに初々しくて可愛いなんて思ってもらいたくもありません! それに義理とはいえ俺たち兄弟ですよ。全部ありえませんから!」
「そっか? 別に義理だし、血も繋がってないし。ま、仮に繋がっていても孕まないから遺伝子的にも問題ないだろ」
「あ、悪魔っ!」
彼の恐ろしい考えに、瑞貴が身を竦ませるのもわずか、すぐに雅弘が気を取り直したように言葉を続けてきた。
「ま、そんな話は後でいい」
「よくないですっ」
後にされたら困るのは瑞貴である。今、ここではっきりとしてもらわなくては、あらぬ疑い……『ゲイ疑惑』を義理の兄に持たなくてはならない。
いろんな意味で身の危険を覚える。
「本題に戻すが、いいか、送迎がいらないなんて、クソ面倒なこと言うんじゃないぞ。わかったな」
「クソ面倒って……」
「じゃ、俺は仕事に戻るからな」
「え! 義兄さん」
呼び止めるが、雅弘は瑞貴の言葉など聞いてはいないようで、さっさと自分勝手なことを告げて部屋から出ていった。
一体、なんなんだ……。
嵐のように現れた男は、瑞貴に困惑だけを残して再び嵐のように去っていった。
唇に触れたのは、温かく濡れた感触。彼の唇が瑞貴の唇に触れたのは間違いようのない事実だった。
そのことを改めて感じた途端、いきなりカッと瑞貴の頬に熱が集中する。
普通の兄弟って、唇にキスするか?
義兄弟だからするとか――? ありえん。
あ、でも洋画なんかで挨拶代わりにしているのは観たことあるよな……。
いやいや、ここは日本だし。しかもヤクザだし……。くぅ~!
わけがわからなすぎて、頭がぐるぐるしてくる。瑞貴は床に倒れ込み、思わず真面目に体育座りなどをしてみた。だが、心はどこか落ち着かない。
ゲ、ゲイってことないよな? 義兄さん、女にもてそうだし。
不安という名の重圧が瑞貴に圧しかかってくる。
「うわぁぁ……、俺、本当にこれからやっていけるんだろうか」
そんな小さな呟きは、十畳の部屋に吸い込まれていった。
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