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その日マシューが風呂から上がると、部屋には誰もいなかった。いつもリヒャルトが書類に目を通しているか分厚い本を開いていたから、しんと静まり返った暗い部屋にマシューは動揺する。開け放たれた窓からカーテンを大きく靡かせて入ってくる冷たい風の音がやたらに響いた気がして、マシューはビクッと身体を跳ね上げた。
「リヒャルト様…?」
サスキア王国を出てからこれまで、リヒャルトの側を離れたことはない。それこそ、トイレと風呂くらいだ。それも、マシューがこのリヒャルトの自室に戻ってくれば必ず笑顔で迎えてくれた。
姿が見えないことが酷く不安で、マシューは微かな望みを持ってベッドの天蓋の中を覗き込んだが、綺麗にベッドメイクされたままだった。
いないはずはない。きっとこの城のどこかにはいて、この部屋に帰ってくるはず。そう自分に言い聞かせるようにマシューは胸元に手をやったが、そこには何もない。風呂に入るために外したままだ。マシューの不安は途端に大きくなって、居ても立っても居られず部屋を飛び出そうとドアに手をかけたその時。
「あれ、どうしたんだい?」
手をかけたその時、部屋の向こう側からドアが開けられてそこにリヒャルトがいた。見ただけでわかる滑らかな質感の白い寝巻きに身を包み、いつもの柔和な笑みを浮かべている。リヒャルトはマシューの胸元で指先が白くなるほど握りしめられた手を見て、そしてマシューのあからさまにホッとした表情を見て状況を察したのか、マシューの背をゆるく撫で部屋の中に入るよう促した。
「すまない、俺も風呂に入ってたんだ。仕事がひと段落したからね、このまま一緒に寝てしまおうと思って。」
バタンとドアが閉まる音が暗い部屋に大きく響く。リヒャルトは早足で部屋の中を縦断すると、開けっ放しだった窓を閉めた。風の音が入らなくなったせいで先ほどよりもずっと静かなはずなのに、リヒャルトがそこにいるだけで少しも恐怖を感じない。
冷静になると途端に醜態が恥ずかしくなって、マシューはカーッと頬を赤くしながらしどろもどろに話し出した。
「あの、戻ってきたら、いらっしゃらなくて…その、びっくりして…ごめんなさい、こんなことで。」
よくよく考えたら、指輪は風呂に入る前にベッドサイドテーブルの引き出しに入れたじゃないか。いつも入れているじゃないか。そう思って件の場所を見てみると、やはりそこにある。もはや恥ずかしいを通り越して情けない。
いつの間にこんなに依存してしまったのだろう。
溜息をついて涙目になってしまったマシューをふわりとリヒャルトが背後から抱き締める。ぺたんとへたってしまっていたマシューの大きな耳は、驚きでピンと立った。
「全く、可愛いなぁマシューは…」
「かわっ…!」
「兎は寂しいと死んでしまうって本当かい?」
「そっそんなの嘘に決まって…」
嘘じゃないかも。
なんて、自分でも思ってしまった。
行動を共にするようになってまだたった数日だというのにこの依存っぷりだ。本当にいなくなったらどうにかなってしまうかもしれない。
いよいよ羞恥で両手で顔を隠してしまったマシューをリヒャルトは自分の方に向かせ、そっとその両手を外して真っ赤になった額にキスを落とした。
ぶつかった視線に甘く蕩けるような熱を感じて、逸らせない。暗い部屋で輝く紫水晶は冷たい色味に見えるのに、その中にあんな甘さを含むのは、狡い。
「…おいで、湯冷めしてしまうよ。」
布団をめくってマシューを先にベッドに入れると、リヒャルトはサイドテーブルの中から薬を取り出す。ああそういえば今日はまだ薬を塗ってもらっていなかった。
マシューの心臓は途端に早鐘を打ち始める。今夜はこのままリヒャルトも一緒に眠ると言っていた。今夜こそ眠れないかもしれない。
「薬を塗ったら昨日買った絵本でも読もうか。すまなかったね昨日読んであげられなくて。」
「いえ、そんなこと…」
「さ、見せてごらん。もうそろそろ傷薬は大丈夫かな?」
マシューは真っ赤になった顔を隠すように俯きながらバスローブを寛げた。数日前まで全身酷い有様だったのに、すっかり綺麗になっている。転んだ拍子に出来た脚の擦り傷だけが醜いかさぶたを残していて、それも剥がれかけたその下は綺麗な肌が覗いていた。
「うん、綺麗になったね。痒いところはない?」
「あの、脛の…これがちょっと。」
「ああ、そうだねここは塗っておこうか。左は?」
「左も…」
「わかった。」
リヒャルトはよいしょと似合わない一言と共にベッドに乗り上げるとマシューの痩せた脚をそっと持ち上げた。美しい眼でじっと傷跡を見ている姿に、マシューの心の奥底に熱いものが湧き上がる。羞恥に視線を逸らしたその時、少しザラつく薬草の感触を纏った温かい指先が足に触れた。
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