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閑話・殿下、ご乱心
旅人が一夜を凌ぐ為の安い宿のドアがパタンと軽い音を立てる。リヒャルトはその薄いドアに凭れかかって深く息を吐くと、ガバッと頭を抱えてその場に座り込んだ。
「怪我人。怪我人怪我人。怪我人…怪我人。怪我………」
「どうなされた殿下。ご乱心か。」
「うわっ!?」
呪 いなのか呪 いなのか分からない自己暗示をかけるリヒャルトに、真上から唸り声のような低い声が降ってくる。飛び上がって驚きを露わにしたリヒャルトは紫色の瞳を目一杯開いて心臓を抑えながらその声の持ち主を見上げ、誰もが賞賛する整った顔を嫌そうに歪めた。
「…なんだそんなところにいたのか。相変わらず嫌な奴だな、盗み聞きか。」
「違います。」
「ふん。真面目に返すな馬鹿者。お前もさっさと寝ろ。」
ゲオルグは主人の分かりにくい気遣いと労いに無言で礼をすると、ぐるりと周りを見渡して再び口を開いた。
「…いかがなさいますか。」
「何がだ。」
「満室ですので外で…となると私もご一緒せねばなりません。」
「はぁ!?」
反射的に大声をあげたリヒャルトはハッとして辺りを見回した。子猫一匹見当たらないことに胸を撫で下ろし、美しい瞳に似合わない侮蔑と嫌悪を色を隠しもせずゲオルグを睨みつけた。
「気色の悪い事を言うな!鳥肌が立っただろうが!」
「私だって嫌ですが仕方ありますまい。」
「心配しなくてもどうとでもなる!」
「それは良かった。怪我人に手を出すような愚行に走った主人を止める羽目にならなさそうで心底安心致しました。」
「馬鹿にしてるのかお前は…」
ふんと不機嫌そうにそっぽを向いたリヒャルトに、ゲオルグは臆する事なくその言葉を吐いた。
「ええ、人間など皆愚かで脆弱な生き物だと思っておりますので。」
琥珀色の瞳に鋭い刃を隠して、ゲオルグはリヒャルトを見つめた。きっと彼は睨んだつもりはなくただ真っ直ぐ見つめただけなのだろうが、リヒャルトはヒヤリとしたものが背中を伝うのを感じた。
人間よりも圧倒的に強い肉体を持つ豹の血を色濃く受け継いだこの従者は、その気になれば赤子の首をひねるようにいとも簡単に自分を殺すだろうとリヒャルトは考えている。一切の迷いもなく、きっと苦痛を感じる暇もないほどあっという間に葬るだろうと。
でもだからこそ、この従者は信用できる。
「…ああ、違いない。人間など皆愚かで脆弱で、加えて傲慢な生き物さ。何故人間がこの世のヒエラルキーにおいて頂点に君臨しているのか甚だ疑問だよ。」
自分が道を外した時は、この獣が自分を止めてくれるだろうから。
不敵な笑みを浮かべたリヒャルトに、ゲオルグは眉一つ動かさなかった。
リヒャルトはくるりと踵を返して歩き出す。小さな宿だ、行けるところは限られている。背後でゲオルグの小さなため息を感じながら、リヒャルトは頭の中で明日のスケジュールを立て始めた。
「殿下、どちらへ。」
「外には行かんから付いて来なくていい。」
「では何かございましたらお申し付けください。殿下も早く休まれますよう。」
「わかっている。」
ゲオルグが一礼して背を向けた気配を感じ取って、リヒャルトも歩き出した。
部屋に戻っても休める気がしない。真っ白いシーツの上でふかふかの布団に包まり幸せそうに眠る可愛い兎を眺めているうちに夜が明けるだろう。それならどこか違う場所で仮眠だけでも取った方が休めそうだ。
リヒャルトは口元を手で多い、緩んだ顔を隠した。
楽しくなりそうだ。
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