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閑話・殿下、ご傷心

「何が悪かったんだ。」 定位置のソファに腰掛けて頬杖をついて窓の外を呆然と眺めていたリヒャルトはおもむろに呟いた。 「…何がですか。」 「明らかに泣き腫らした目をしていただろう。何が悪かったんだ。ルイとの婚約は形だけで何も心配要らないと言ってあったのに。禁書室に一緒に連れていけばよかったのか?でもマシューまで姿を消したら不自然極まりないし、それにあんな埃っぽいところに連れて行きたくないし寝るところもないし飯も…」 「ジメジメジメジメ鬱陶しいですね、散歩でもしてきたらいかがですか。」 「鬱陶しいだと…おのれ自分は一週間ルイとよろしくやって満足のくせに…ツヤツヤしているのが本当に腹立たしいな…!」 「それは妬みというものです。見苦しいですよ殿下。」 「うるさい。」 リヒャルトはそう吐き捨ててタンスの中からカーディガンを引っ張り出すと、それをふわりと肩に羽織って歩き出す。ゲオルグの前を横切った時、ゲオルグは一応分かり切った答えを得るために声をかけた。 「どちらへ。」 「散歩だ。20分で戻る。」 「少し冷えますのでなるべく早くお戻りください。一週間寝食を疎かに読書に没頭しておられて体力も落ちているでしょう。」 「散歩に行けと言ったのはどこのどいつだ…わかったわかった、すぐに戻る。」 片手をひらひらと振って部屋を後にすると、扉が閉まる直前にゲオルグのため息が聞こえた。 構わず歩き出すと、カーディガンを羽織ってきたにもかかわらず冷たい風が肌を刺す。ふるりと身震いして、リヒャルトは歩く速度を速めた。少しすると視界が開け、ラビエル王城自慢の庭園が眼前に広がる。リヒャルトは一歩庭園に出ると大きく深呼吸して、入り込んできた冷たい空気が身体の中を循環する感覚を楽しんだ。 辺りを見回すと、二つの人影が目に入る。兄のジークハルトと、その妻ニーナだった。向こうもリヒャルトに気がついたらしく、こちらに歩み寄ってきた。 「リヒャルト、一人か?」 「はい。お久しぶりです、ニーナ義姉様。」 「ごきげんようリヒャルト殿下。益々お美しくなられましたね。」 「微妙な褒め言葉ですね…」 「リヒャルト、寒くないのか。今日は結構冷えるぞ、そんな薄着で…風邪を引いたらまた寝込むんだから気をつけろ。」 「兄様、同じ言葉をニーナ様にかけて差し上げてください。腹に子がいるんですから。」 リヒャルトは苦笑いしながらニーナの僅かに膨らんだ腹を愛おしく思った。男のβであるマシューを伴侶に選んだ時点で、リヒャルトは子を持つ可能性を捨てた。だからだろうか、甥っ子あるいは姪っ子になるこの子の誕生がより楽しみになっている。生まれたら我が子のように可愛がりたいと思っていた。 「うふふ、ジークハルト様はリヒャルト殿下より大切なものがありませんから。」 「そ、そんなことはないぞニーナ。お前も腹の子も同じくらい…」 「うふふふ。」 仲睦まじい姿が微笑ましい。 それを見ると、マシューの泣き腫らした顔を思い出して、リヒャルトは僅かに顔を曇らせた。そしてそれを目敏く見つけたジークハルトが怪訝な顔をする。 この兄は医者という職業柄か、人の表情の変化に非常に敏感だった。 「どうした、浮かない顔をして。」 リヒャルトは迷いがちに口を開く。が、出てきたのは分かりにくい粗末な一言だけだった。 「いえ、ちょっと…大切な人を泣かせてしまって。」 「あの兎か?」 「…はい。」 ジークハルトは顎に手を当てて難しい顔をする。リヒャルトとマシューの関係を認めてはいないジークハルトは安易にアドバイスをすることが憚られたのだが、この勝ち気で誰よりも負けん気の強い弟が本気で落ち込んでいる様子に心が揺らぐ。 どうしたものかと考えあぐねていると、先に口を開いたのはニーナの方だった。 「あら、喧嘩は仲良くなるためのプロセスにすぎませんのよ。誠実に話し合いお互いに理解を深めれば仲直りできますわ。…そうね、なにかプレゼントでも用意して、話を聞いてくれと頼んでみるのも手ですわ。ジークハルト様は良く苺を買ってくださいますわよ。」 「ニーナ!」 「うふふ、頑張って、リヒャルト殿下。」 バツの悪そうなジークハルトは眉間のシワを揉みほぐし、一つため息をついた。 リヒャルトはふと心が軽くなる。そして顔を上げて二人に礼を述べると、足早にその場を後にした。 誠実に話し合い、仲良くなるためのプロセスをたどる。いいじゃないか。早速今夜じっくりと話し合い、また泣いてしまうかもしれないマシューにそっとキスして優しく愛でて… 一人意気込んだリヒャルトを他所に、ルイと仲良くお茶をして帰ってきたマシューは既にスッキリした顔をしていて、リヒャルトはちょっとがっかりするのだった。

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