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静かな部屋に響く大きな唸り声に、マシューはビクッと跳ね上がった。 「…なかなか書くことが難しいようですな。」 ルイの存在に然程悩まなくなったのもほんの束の間、マルクスとの読み書きの授業はいつだって憂鬱だ。 文字を読むということは大分慣れてきたが、やはり文字を書くことが難しい。今までペンを握る機械そのものがほとんどなかったマシューの文字は、ミミズから漸く幼児の殴り書きに参加したところだ。 大きな翼に覆われてどこが指なのかわからないようなマルクスは流麗なお手本のような文字を書くというのに、人間とほとんど違いないマシューの手は一向に美しい文字を生み出せないでいる。 もともと、自分で本が読めるようになれればよかった。だから文字が大分読めるようになった今、無理に書くことにこだわる必要はないのではとも思う。けれどやはりリヒャルトの隣に立ちたいという思いが、そのために少しでも教養が欲しいという思いに直結する。 授業の時間外でも毎日ペンを握って書き取りの練習をしているのに、なかなか筆圧が安定せずに文字と言えるものが書けない。不自然に力を入れるためか肩が凝って仕方がないし、腕が常に重だるいような感覚があった。 マルクスも手を替え品を替え懸命にマシューの字の上達を手助けしてくれているのだが、なかなか難航している。 マルクスの溜息に、今日の授業も大した成果もなく終わるのだろうかというとき、ガチャリと扉が開いて早朝から留守にしていた部屋の主人が戻ってきた。 「…あ、すまないまだ授業中だったか。マルクス先生、ご無沙汰しています。先日の教育改革案、興味深く拝見しましたよ。流石のご指摘でした。」 「御機嫌ようリヒャルト第三王子殿下。勿体無きお言葉、ありがたく頂戴致します。」 「エリーゼが成人して政治に関わるようになってからでしょうから、実現には20年くらいかかりそうですがね。その頃には世代が変わってるから下手をしたら50年くらいかかるかもしれませんねぇ…」 「殿下が政策を進めればよろしいかと。」 「あはは、冗談はやめてください。禿げ上がってしまう。」 何かいいことがあったのか心なしか晴れやかな顔で戻ってきたリヒャルトは、マシューにはさっぱりわからないなにやら難しい話でマルクスと冗談を交わし、マシューに歩み寄ってこめかみにただいまと囁いてキスを落とす。しかし浮かない表情のマシューを怪訝に思ったのか、机の上に広げられたノートを覗き込んだ。 「…書き取りもしてるのか。読めるようになればいいのかと思っていたよ。ペンを握るのはなかなか慣れるまで難しいだろう、偉いなマシュー。」 「いえ、全然上手くならなくて…恥ずかしいです。」 既に幼児の吸収力を失ったマシューが一から文字を覚えるのは大変だろうと事前にリヒャルトもマルクスも懸念していた。その懸念に反してマシューはやる気 と根性と有り余る時間を駆使して読み取りはあっという間に習得したというのに、次のステップになかなか進めない。 早々に躓いたことが恥ずかしくて、マシューはリヒャルトの顔を見ることができなかった。 「色々と試しているのですが、なかなか…腱鞘炎になる方が早いかもしれません。」 「…ふむ。」 手を顎に当てて少し考えたリヒャルトは、羞恥に顔を真っ赤にして涙をこらえるマシューの背後に立ち、ペンを握るマシューの手に自らの手を重ね、ノートを1ページめくると真っ白い紙にサラサラとペンを走らせ始めた。 「読めているんだろう?字に拘らなくてもいいんじゃないかな?」 一つのペンを二人で握っているというのに、マシューが一人で握るよりもずっと滑らかに走っていく。重なった手の体温に胸が高鳴るのと同時に、その鮮やかなペン先に心が踊った。 が、しかし、そのペン先が描くものが次第に形を成し始めると、マシューの顔が呆然とする。 歪な丸の上に乗っかっている二つの耳はあまりに大きさが不揃いで、目と思われる位置には丸の中にダイヤマークのようなきらめきがある。顔の半分を占めようかという大きな鼻の下には、裂けそうなほどに顔いっぱいに弧を描く口があり、生物に致命傷を負わせそうな鋭い牙が見え隠れしている。 ふふんと得意げな表情を浮かべるリヒャルトに、場の空気が凍りつく。最初に沈黙を破った勇者は、マルクスであった。 「…殿下、その…失礼を承知でお伺い致しますが…」 「なんだ。」 「…………これは一体。」 「兎だ。」 「うさぎ。」 マルクスの間抜けな鸚鵡返しの後、再び沈黙が訪れる。 マシューはリヒャルトが描いた、本人曰く兎らしいものをじっと見つめた。不自然なきらめきのある瞳が、なんとも不気味だ。これはなんとコメントしたらいいのか、とマシューが冷や汗を流すと、これまで沈黙していたゲオルグが初めて口を開いた。 「…今夜は悪夢に魘されそうなほど恐ろしい兎でございますな。」 誰もが思った、けれど口にしなかったそれに、リヒャルトの纏う空気が一瞬で冷気を帯びたものに変わった。 「その恐ろしい兎でそんな得意気になられても些か困ります。」 「俺の描いた兎が可愛いとか可愛くないとかそういう話じゃない!」 「可愛くないというレベルではないかと…」 「だから論点はそこじゃないと言っているだろう!絵を描くのはどうかという話に対するコメントを求めているんだ!」 「殿下も絵の練習をされたらいかがですか。」 「お前いつか不敬罪で突き出すからな…!」 いつもの余裕ある姿勢を崩し本気でゲオルグに食って掛かるリヒャルトを見ながら、マシューはマルクスと顔を見合わせてクスリと笑い合った。 外から入る風が湿り気を帯びている。 季節が移り変わろうとしていた。

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