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ほんの数日で埋め尽くされてしまったノートをパラパラと見返すと、そのほんの数日で随分と筆圧が安定した。ノートを埋め尽くすのは文字ではなく、マシューが絵本を模写したイラストが大半と、時々リヒャルトが参加した痕跡であるなんだかよくわからない生物が生息している。最近は毎日朝のティータイムに一緒にノートを囲んで絵を描くのだが、リヒャルトの絵はいっそ芸術の域と思えるほどで、それを眉根を寄せながら一生懸命に描くリヒャルトが可愛くて可笑しくて毎日笑ってしまっては頭を小突かれるのだった。 ノートを閉じ、マシューは笑みを浮かべて窓の外を見やる。しとしとと降り注ぐ雨が窓を伝っていく。キラリと光る露が今日はなんだか輝いて見えて、マシューはぐーっと伸びをして肩を回した。 少し息抜きに行こう。 雨が降っているから庭園には出られないが、眺める程度なら問題ない。雨の雫を纏った草木は普段と違う色彩を帯びていて、まるで特別な装いをしているようでマシューはお気に入りだった。 リヒャルトは最近忙しくしていて、日中あまり一緒に過ごせない。けれどこうして一人で出歩き見つけた素敵なものをリヒャルトに夜話して聞かせるとリヒャルトはとても喜んでくれるから、マシューはいつも周りをよく見ながら城の中をゆっくりと歩いている。 そろそろあの花は咲いているだろうか、と庭園に向かうべく廊下の角を曲がった時、少し先に見知った姿を見つけた。 「おお、君はリッチの…マシューといったかな。」 大きな身体に獅子のたてがみのような豊かな栗色の髪、その中に隠れる小さな獣耳。ラインハルトはニコリと微笑んでマシューを手招きした。 「ラインハルト様、ジークハルト様…こんにちは。」 「こんにちは。散歩か?」 「はい、そろそろあの紫色の花が咲いたかなと思って。」 「紫色…紫陽花かな?ジーク、他に紫色の花なんてあったか?」 「藤では?紫陽花はもう少し先ですよ。」 「ああ、そうか。いや花には疎くてなぁ…」 照れを隠すように頭を後ろ手にかきながらハハハと笑ったラインハルトを横目でみやって、ジークハルトは真っ直ぐに冷たい視線をマシューにぶつけた。 一つに括った長い艶やかな黒い髪に雪のように白い肌、それらを彩る至高の輝きを持つ瞳は眼鏡を通しても美しい。涼しげな目元は本当によく似ているのに、その視線が持つ色合いだけが全く似ていない。 「…最近、文字を覚えたらしいな。」 「そうなのか?」 「はい、あの…まだ書くのはなかなか…」 「言語を学ぶのは簡単じゃあないぞ!もっと胸を張りなさい!」 大きな拳でトンと優しくマシューの薄い胸を叩いてくれたラインハルトは豪快に笑ったが、マシューは苦笑いを返すしか出来ない。 その隣に佇むジークハルトは、厳しい顔つきを崩さないからだ。 「向上心があり勤勉なのは評価しよう。だが、我々王族の隣に立つということがどういうことかよく考えていただきたい。取り分けリヒャルトは格別だ。エーベルヴァイン公子がおられるとはいえ…貴殿のような教養も地位も名誉もない他国の、それも子も産めない男のβがリヒャルトの実質妻として隣に立つことに異を唱えるものは少なからず出てくるだろう。」 「………はい。」 「それでもリヒャルトのパートナーとして側にいたいと、本当に君自身もそう思うのか?」 はい、と答えようとして、マシューは一瞬口籠った。 少しの違和感を感じたからだ。まるで今の聞き方は、リヒャルトがマシューに伴侶としてここにいることを強要しているのではと懸念しているように聞こえる。そんなことはないし、リヒャルトはマシューに何かを強要したことはただの一度もない。なぜそんな意地悪な聞き方をするのだろうと、マシューは思わず眉をひそめた。 それを見たジークハルトは、失敗した、とでも言うように視線を逸らし、少し考えてから口を開いた。 「…人間のαということを差し置いても、あの子は特別だ。未来が視えているんじゃないかと思うことがあるほどに…だからだろうな、時折何が何でも自分の思い通りに事を進めようとする。そしてそれは大抵結果としては最良の道なんだ。」 リヒャルトとよく似た面差しが、苦々しく歪む。口ではリヒャルトを讃えながら、心では何か複雑な想いを抱えているのが見て取れた。 「政治や軍事はまだいい。だが対人はダメだ。…私には、リヒャルトが愛なんてもののために貴殿をここに連れてきたとはとても思えない。何かに利用価値があるから連れてきたんじゃないかと思っている。…悪いことは言わない、お互い傷が浅く済むうちにここから出て行くんだな。」 怪訝な顔をするマシューに一気にまくし立てたジークハルトは、ラインハルトに一礼をするとくるりと踵を返し颯爽と去っていった。 リヒャルトとよく似た顔で、出て行けとはっきり言い放つ。マシューはグッと涙をこらえて俯いた。

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