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ジークハルトの背中が見えなくなると、重苦しい空気だけが残る。このところ漸く心穏やかに過ごせる日々が戻ってきたというのに、マシューの心はまた沈んでいきそうになっていた。特別な装いのようで素敵に感じた草木を滴る雨露も、こうなってしまうとただの雫。空を覆う灰色の雲はまさに今の心の様子を表しているようだ。
知らず小さなため息をつくと、隣のラインハルトから優しく声をかけられた。
「母親が同じということもあるんだろうが、ジークとリッチは昔から本当に仲が良いからな。君にリッチを取られたみたいで寂しいんだろう。気にすることはない。」
「…はい。」
一応笑みを浮かべて返事をしたものの、ちっとも心の靄は晴れない。それはラインハルトにもすぐにバレてしまって、ラインハルトはぽんぽんと無骨な手でマシューの頭を撫でた。
「リッチが昔身体が弱かったのを知っているか?」
「え?いえ…初耳です。」
「そうか。まぁ今も弱いんだが…小さく産まれてな。グスタフ医師に5歳を迎えられるかどうかとまで言われたんだ。実際1年の殆どをベッドの上で過ごしていたよ。小さい身体に注射針の痕をたくさんつけてなぁ…本を読むくらいしか出来ることがなくて、いつも夥しい量の本を積み上げていたよ。…あの子の知識はそこから培ったんだろうな。」
昔を思い出すように遠くを見つめるラインハルトの表情は柔らかい。
リヒャルトにそんな事情があったなんて少しも知らなかった。しかし思い返せば、確かにグスタフ医師との会話の節々にそれを思わせる会話があった。いつもリヒャルトに付き従うゲオルグも、無理はしないようにと口を酸っぱくしていたように思う。それはただリヒャルトが王子という高貴な身分であるからではなく、リヒャルトが病弱だからだったのかとマシューは今更合点がいった。
「そんなリッチを見ていたからかな、当時帝王学を懸命に学んでいたジークが突然医者になると言い出した。高齢のグスタフ医師がリヒャルトを診られなくなったら、自分が診るんだと言ってな。今では国の最高医療機関の救急救命医だ…大したものだよ。」
ラインハルトはそこで黙った。雨が強くなってきて、地面に爪痕を作っている。小川のように小さな流れを作っている箇所もある。ラインハルトはそれをじっと眺め、口を開いた。
「…5歳まで生きられないかもしれないと言われたリヒャルトが5歳を超え、7歳の時に軍師として頭角を現して以来数々の脅威から国を救い出した。暴徒に反逆、他国軍の侵略…それだけじゃなく国内外の奴隷解放に飢饉の解決。恐ろしい奴だよ、本当に。」
ラインハルトの声は小さく早口で、所々何を言っているのか理解ができなかった。それを聞き返そうとラインハルトの顔を覗き込んで、マシューは息を飲んで顔を引きつらせた。
目が合ったその瞳があまりに冷たくて、それなのに口元だけが笑みを作った不自然な笑顔だったからだった。
「虚弱だったあの子がこうして大人になって、好いた相手を連れてきたことが私はとても嬉しいんだ。だが王宮の厳しさに君が耐えられず逃げ出すようなことがあると、リッチが傷付くだろう。ジークはそれを懸念しているんじゃないかな。」
マシューはコクコクと壊れたブリキのような首を縦に動かした。
優しく諭しているようで、この人は明らかにマシューを値踏みしている。リヒャルトに害を与えたりしないか、いやそれ以前にマシューという人の価値を図っているように見える。
マシューの顔が引きつったのを見て、ラインハルトの顔がふっと笑みを形作る。その笑みに、マシューはまた違和感を覚えた。
「ふふ、まぁ脅かしたがな、あのリッチの様子じゃあちょっとやそっとのことで君を手放したりせんだろう。安心しなさい。」
「…はい。」
しかしそれはほんの一瞬のことで、次の瞬間にはもう頼れる優しい兄の顔をしていた。気のせいだったのだろうか、とマシューは戸惑いを覚えたが、リヒャルトも信用しているこの人の笑顔に違和感を覚えるなんて不敬もいいところだと思い直す。
そして少し考えて、マシューは口を開いた。
「あの、ラインハルト様。一つお聞きしてもよろしいでしょうか。」
「なんだ?」
「何故、リヒャルト様は…僕なんでしょう…?」
それを聞くなり、ラインハルトは大きく口を開けて笑い始めた。静かに雨が降り注ぐ誰もいない庭園と、広い廊下に大きな笑い声が響く。通りすがりの侍従がギョッとしてラインハルトを見て、そして慌てて礼をして足早に去って行った。
一頻り笑ったラインハルトは目に涙をうかべている。美しい紫色の瞳がキラリと光った。
「なんだ、気にするなと言っているのに。リッチが信じられんか?」
「えっ!?いや、その…」
「まぁ、正直なところ俺もあの子が愛だの恋だののためだけに君を連れてきたとは思えんのだが…一つ考えられる理由はある。」
全く見当がつかないマシューが小首を傾げると、ラインハルトはニヤリと意味深な笑みを浮かべた。
「………いや、滅多なことを言うものではないな。」
「え?」
「自分で聞くといい。きっと砂を吐けるほど甘い言葉が次から次へと飛び出すよ。」
はぐらかされてしまったそれはずっとマシューが考えていたことで、誰に尋ねたらいいのかわからず考えないようにしていたことだった。
リヒャルトはいつも自分に多くのものをくれる。それは物だけではなく、愛情や安心も惜しみなく与えてくれる。それなのに自分は何もしていない。ただ与えられる温かな感情に恐縮しながらも完全に脱力して身を任せているだけだ。
やはり本人に聞くのが一番なのだろう。一番、聞き辛いのだけど。
思わずしゅんと萎れてしまったマシューを知ってか知らずか、ラインハルトは再び口を開いた。
「ああでも、あまり出過ぎたことを言うのは良くない。………伴侶は、賢すぎない方がいい。俺は馬鹿な程いいと思うくらいだ。」
その優しげな瞳と相反する辛辣な言葉に、マシューは一瞬ラインハルトが何を言ったのか理解ができなかった。
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