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「知識ばかりの頭でっかちとばかり話しているからな。伴侶にまであれこれ口出しをされては堪ったものではない。余計なことを言わずニコニコ笑って美味い茶でも淹れてくれる妻が理想だ。」
ラインハルトはやれやれと肩を竦めて大きな溜息をついた。そしてゆっくりと開いた瞳は、美しい紫色の輝きを失い、どこか胡乱な濁りのある色で、マシューは反射的に一歩後退った。
「…その点君は素晴らしい。愚かなほどに無垢で純粋で、恐ろしいほど健気で美しい。おまけに発情期に付き合う必要も孕む心配もない男のβときた。流石としか言いようがないよ、リヒャルトには。」
マシューが下がるよりも大きな一歩を踏み出したラインハルトは、その無骨な手からは信じられないほど優しく繊細な指先でマシューの細い顎を掬い取る。強制的に合わせられた視線。肉食獣特有のギラリとした瞳孔の小さいそれは、マシューが最も恐怖を感じる無遠慮な捕食者のそれだ。
「どうだ、王位継承権の低い第三王子の公妾なんぞに甘んじるよりも、そう遠くない未来に王となる俺の公妾になりいずれは第二王妃として…」
「やっ…やめてください!」
この人、怖い。
弱者の反応がそう叫んで、マシューは顎にかけられた指先を思わず力一杯跳ね除けた。ハッとした時にはもう遅い。行き場を失ったラインハルトの大きな手は宙に浮かびその顔は表情を失っている。
心臓が不自然な程に高鳴って痛い。顔を蒼白にして痙攣らせながらそろりとラインハルトを見上げると、ラインハルトは紫色の瞳が見えなくなるほど目を細めてニカッと快活に笑いかけた。
「ハハッ!すまんすまん、冗談が過ぎたようだ。全く本当に純粋で可愛らしいな、リッチが羨ましいよ。」
あまりのその落差に、マシューは拍子抜けした。
冗談?嘘?
どこからどこまでが?
頭の中をいろんな可能性が駆け巡る。自分の公妾にならないかと誘われたところから?それともリヒャルトがあまり丈夫ではないという話から全てが嘘だった?
濁った紫色の瞳を窺っても何も教えてはくれない。ただ今も身体の芯に残る冷たいものだけは信用できる。
マシューはギュッと首から下げた紫水晶の指輪を握りしめ、震える唇を開いた。
「ぼ、僕っ…も、戻ります!…ご、ご教示いただきありがとうございました!」
精一杯気丈に振る舞ったのは、貴方のものにはなりませんという意思表示だ。
マシューは踵を返す。ちらりと庭園を見やると、いつのまにか雨の勢いが増していた。
「ああ、そうそう。」
そしてマシューがその場を立ち去ろうと一歩を踏み出した瞬間、背後からラインハルトの声が響き渡る。
「じきに嵐の季節だ。…リッチは気圧の急激な変化と湿度に滅法弱い。今でも毎年この時期は寝込んでるはずだ。よくよく気をつけるように伝えてくれないか。」
ちょっとだけ振り返ったその先にいるラインハルトは優しく微笑んでいる。ひらひらと手を振る姿は初めて出会った時と同じ大らかで朗らかな器の大きい人と相違ない。マシューはぺこりと頭を下げ、動揺を悟られないようゆっくりと歩き出した。数メートル進んだ先、道を曲がると、マシューは途端に走り出す。
早く、早くあの人から離れなければ。
今にも泣きそうな表情で脇目も振らず城内の廊下を走り抜けるマシューに、侍女がサッと避けてマシューを振り返った。不審なものを見るようなその視線に構っている余裕はない。
わからない、何が本当で誰が信用できるのかわからない。
冷たい瞳と厳しい言葉で詰るジークハルトを恐ろしい人だと思っていた。快活な笑顔と温かい言葉で理解を示すラインハルトを優しい人だと思っていた。
本当は?
腹違いとはいえ弟であるはずのリヒャルトを『王位継承権の低い第三王子』と見下すような言葉を吐いたラインハルトは、優しい笑顔の仮面を被っているだけ?
マシューが逃げ出すことでリヒャルトが傷付くことを危惧する一方でマシューがリヒャルトに無理矢理ここに連れてこられたのではないかと心配してくれていたジークハルトは、無愛想で言葉が厳しいだけ?
リヒャルトが、愛していると囁いて優しく抱いてくれたリヒャルトが、自分を何かに利用するためにここに連れてきた?
わからない、そんなわけない、そんなのわからない!
マシューは全速力で廊下を走り抜け、リヒャルトの自室に戻るための最後の曲がり角を勢いを殺さずに曲がり、そして正面にいた誰かに思い切りぶつかってドンッ!と盛大に尻餅をついた。
「うわっ!」
「おっと!…と、マシューじゃないか。すまない、大丈夫か?」
心の奥底にジンと響き灯りを灯してくれる柔らかなテノールは、他でもないリヒャルトのもの。顔を上げると、同じ色彩のはずなのに、濁ってもいない、冷たくもない紫色。
リヒャルトだけが持つ、尊い色。
マシューの大きな瞳から透明な雫が泉のように湧き出す。それは滝のように流れ落ちて白いシャツに点々と痕を残し、そしてそれはあっという間に融合して大きなシミになった。
「マシュー…?何が…」
「り、リヒャルト様っ…!う、っ…うえぇっ…!」
尻餅をついたまま小さな子どものように泣き出したマシューにリヒャルトは一瞬戸惑いの色を見せたものの、すぐに部屋に連れて入り、天蓋を閉めたベッドの中で震えるマシューをギュッと強く抱きしめてくれた。
こめかみに触れる唇の感触、背を撫でる手の暖かさ、服越しに伝わる体温、微かに香る甘い香り。
誰を信用したらいいのかわからない。何が正しいのかわからない。ただ一つ、この人が自分を本当に愛してくれていること以外は。
腹の中に何を抱えていようと、その為に自分を利用しようとしているのだとしても、リヒャルトが自分を本当に愛していることはその尊い瞳を見ればいつだってわかった。
ただそれだけが、救いだった。
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