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「…んで………」 握りしめた痩せた拳を震わせるマシューを、リヒャルトが怪訝そうに覗き込もうとする。マシューは下から覗き込まれるよりも前にガバッと顔を上げ、怒りに唇を戦慄かせながら目の前に現れた力無いリヒャルトの美しい瞳を睨みつけた。 「なんでリヒャルト様は僕に何も言ってくださらないんですか!?」 「え………」 「お身体が丈夫でないことも、ルイ様のことも、国王陛下と仲がよろしくないことも…全部全部土壇場で、リヒャルト様は、なんで、…なんでッ…!」 大きな瞳から涙が溢れ出るのと同じように、ここに来てから少しずつ蓄積された 不安と不満が濁流のように溢れ出てくる。ルイの事も国王との不仲も蒸し返すつもりなんてなかったのに、(たが)が外れたように次々と言葉が勝手に口から出てしまう。やめなくてはと思うのに。 「…ぼ、ぼく、ひっく、僕には大切なお話をする価値ないですか…?異国民だから?読み書きも出来ないバカだからですか?それとも商品価値すらない奴隷以下の兎のβだからですか!?」 ああダメだ、止まらない。 「あ、愛玩動物のつもりなら、そう言ってくださればよかったのに…!」 とその時、突如リヒャルトが激しく咳き込み始めて、マシューは漸く我に返った。不自然な音を立てる胸を握りしめながら息つく間もなく咳き込むリヒャルトの背中を摩ろうと手を伸ばすと、逆にその手を捕らえられる。リヒャルトの手は小刻みに震えていた。 しばらくして少し落ち着きを取り戻したリヒャルトが、血を吐くような声で呟いた。 「……続けなさい。」 それが鋭利な刃物のようにマシューの心に突き刺さって、マシューはビクッと飛び上がった。 ドクドクとマシューの心臓が早鐘を打つ。痛いくらいに。サァッと血の気が引いて、あれほど簡単に飛び出していった言葉は何一つ出てこなくなっていた。 どうしよう、怒らせてしまった。 思ってもいないことを感情任せに口走った結果だ。それも病人相手に。怒って当然だ。マシューはギュッと目を瞑って次に襲ってくる叱責に備えた。罵詈雑言かそれとも拳か、もしかしたら静かに突き放されるかもしれない。 恐怖に震えるマシューの身体はそっと引かれて、熱いものに包まれた。それが未だ高熱があるリヒャルトの身体だと気付くまでに、マシューは一瞬の間を要した。 「リヒャ…」 「続けて。言いたいこと不安なこと、全部言って。全部ちゃんと受け止めるから。」 マシューの知る美しいテノールは見る影もない。消え入りそうな小さな声。一言一言とともに血反吐を吐きそうな苦しそうな声だった。それが発作のせいなのか喉の痛みのせいなのか、それとも今マシューが投げたナイフで心に負った傷のせいなのかはわからない。 けれどその声色の中に怒りの感情はない。それは寧ろ、懇願のようで、マシューは再び口を開いた。 「どっ、どうして僕なんですか…?僕、僕何もお役に立たないのに…っ!」 「君を愛している。それは理由にならない?なにか気がかりなことがあった?」 「り、リヒャルト様が、愛だの恋だのの為だけに、僕みたいなの連れて来るわけないって、みんな…!」 「ああ、あれか…あのなマシュー。聞いてくれ。逆だよ。」 異常に熱いリヒャルトの身体に縋り付きながら泣くマシューの頭をゆっくりと撫でる手の存在に気が付いて、マシューは徐々に落ち着きを取り戻していく。リヒャルトはそれを待ってから、言葉を紡ぎ出した。 「逆なんだ。政治の為に愛だの恋だのと理由付けたんじゃない。愛だの恋だのの為に政治を理由にしたんだよ。根本的に皆勘違いしてるようだけどね。」 その言葉を理解するのに、マシューは一瞬の間を要した。そして泣き腫らした顔を上げると、いつも通りの甘く蕩けそうな微笑みを浮かべたリヒャルトと視線が合う。その視線に嘘偽りは感じられない。 「…どうも、言葉足らずみたいだな俺は。すまない、不安にさせて。」 マシューは急にホッとして、身体の力を抜いた。リヒャルトの熱が伝わって身体が熱い。けれど、リヒャルトが全てを受け止めてくれているその安心感が、マシューの心を穏やかにしていった。 しかしそれも束の間、マシューの脳裏に明るい笑顔でゲオルグとの苦しい恋を告白してくれたルイの姿が過ぎる。 「る、ルイ様は?僕と一緒になったら、ルイ様はどうなるんですか?」 「ルイは、………」 リヒャルトは少し考えた。静かになると、マシューの大きな耳が微かな喘鳴を拾う。今もかなり苦しいはずなのに、不安感に取り乱して錯乱したマシューにとことん付き合ってくれようとしている。 その優しさが嬉しくて、だけど同時に痛かった。 「…ルイは、ゲオルグとともに遠くへ逃がそうと思っている。」 「え…」 「出来れば捨てられたのは俺の方という体でッ、…ゴホッゴホッ…」 再び咳き込み始めたリヒャルトがサイドテーブルにある水に手を伸ばしたのでマシューは慌ててそれを手に取り差し出した。息苦しさからか少し口に含んではゆっくりと嚥下する。その姿を見ながら、マシューはふと一つの懸念が浮かんだ。 水を一口飲むのも大変そうなリヒャルトの側から、そう遠くない未来にゲオルグが居なくなるかもしれない。 昨夜高熱と呼吸困難に喘ぐリヒャルトを前に呆然と立ち尽くし助けを求めることしか出来なかった自分。テキパキと慣れた様子で看病をしたゲオルグ。彼が居なくなったら、誰がリヒャルトの看病をするのだろう。 マシューはキュッと唇を噛んだ。あの時の無力感は、もう嫌だ。 「心配をかけないように、不安にさせないように、怖い思いをさせないように、言わないようにしていたんだ。…すまない、返って嫌な思いをさせてしまったな。」 再びリヒャルトの胸に身体を預けゆっくりと頭を撫でてくれる手の温もりを甘受しながら、マシューはふるふると首を振った。 ゲオルグの代わりに、リヒャルトの世話の一切をこなせるようになりたい。 重なった唇の甘さに酔いながら、マシューは一人決意を固めた。

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