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母と呼ばれた喜びからか、それとも話を遮られた驚きからか、はたまた反抗された怒りからか、オリヴィアは目を大きく見開き綺麗なサファイアブルーの瞳いっぱいに自分とよく似た息子の姿を映した。
リヒャルトの美しい紫水晶の瞳がそれを真っ向から睨み返す。病人とは思えない眼力が、オリヴィアを射抜いた。
「母様の望みは必ず叶えます。しかし彼をここから追い出す必要はありません。彼は必要な存在ですので。」
オリヴィアの顔がどんどん強張っていくのにリヒャルトが気付いていないはずはないのに、リヒャルトは言葉を紡いでいく。至極冷静に、淡々と。マシューの知るリヒャルトはそこにいない。
しかしそのマシューの知らないリヒャルトは、ちらりとマシューを一瞬だけ見た。その一瞬だけは、とても温かく優しい瞳をしていたことに、マシューはどきりと胸が高鳴る。
リヒャルトは視線をオリヴィアに戻し、更に続けた。
「…私が彼を選んだのは種でも生まれでも育ちでもありません。心の美しさと芯の強さです。計画は必ず成功させますのでご心配なく。」
リヒャルトはゆっくりとオリヴィアの身体を引き剥がし、まるでダンスのエスコートのように手を取りながら、部屋の外へ誘導する。母に敬意を示すため、キッチリ礼をしてから、再び口を開いた。
「…本日は見舞いに来てくださりありがとうございました。」
バタンと重苦しい音はまるで拒絶のよう。リヒャルトは容赦なく母を追い出し、扉の向こうに向かって心底うんざりしたように大きなため息をついて、そのため息で呼吸が乱れたのか咳き込んでしまった。マシューは思わず駆け寄って背中を撫でる。すると困ったように微笑んで、マシューをギュッと抱きしめた。
突然の温もりと強いリヒャルト自身の香りにドキッとして、どうしていいかわからずわたわたと両手を彷徨わせるマシューに、リヒャルトは珍しく「あっ」と素っ頓狂な声を上げてマシューを解放した。
「すまない、汗臭いよな?シャワー浴びてくるか…」
「えっ?いやそんなことないです、ビックリして…シャワーなんて、大丈夫なんですか?」
「ああ、結構深く寝入っていたからな、随分スッキリした。こういう時に浴びておかないと何日も止められたりするからな…ちょっと行ってくるよ。」
マシューの額に小さなリップ音を立てて落とされた唇は確かにかなり平時に近い。顔色は悪いが視線はしっかりしているし、本当に大丈夫なのだろう。マシューは気持ちばかりホッとして僅かに微笑み、リヒャルトを送り出す。
戻ってきたら、聞いてもいいだろうか。
オリヴィアの望みを、そして計画というものがなんなのかを。
マシューはギュッと胸元で揺れる指輪を握りしめる。そこにある指輪の質感だけが、いつも変わらずマシューを安心させてくれた。
程なくして戻ってきたリヒャルトを笑顔で迎え入れたけれど、その笑顔が緊張で強張ったいることに、リヒャルトは気付いただろうか。
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『私の愛しい天使へ
私を真っ直ぐに求めてくれる貴方
私を一番に愛してくれる貴方
私に価値をくれた貴方
愛しているわ 誰よりも何よりも
必ず守るわ 恐怖からも脅威からも
私の愛しい天使へ
私を母にしてくれてありがとう 』
戻ってきたリヒャルトは、机の上にいつも置かれているマシューの『私の愛しい天使へ』の絵本をじっと見つめ、マシューも散々読んだ最初の1ページを一片の迷いもなく流暢に空で読み上げた。
ラビエル国民が皆手習いに使うというその一文を、きっとリヒャルトもこれでもかというほど読み書きしたのだろうと思う。だから空で読めるのだろうとは思う。けれどそれにしては、どこか哀しげな、内容に似合わない読み方だった。
マシューがそれを静かに聞いていると、リヒャルトは振り返り、そっと微笑みかける。そして信じられない一言を発した。
「…この絵本、母が書いたんだ。もう27年も前、ジークハルト兄様が生まれた時に。」
マシューの時が一瞬止まった。
外の風が強く吹いて窓枠を揺らし、耳障りな音を立てる。今夜もまた嵐かもしれない。またリヒャルトが倒れてしまうかも。そんな関係のないことを考えていた。
「第一王妃としての責務とプレッシャーに潰されそうになりながらも、国民の母として日々懸命に生きておられた。同時に我が子であるジークハルト兄様を厳しく教育しておられた。そのために書かれた絵本だ。…物心がつくかつかないかのほんの子供に、読み書きを教えるために母が自ら考えて作った物語…それがこの『私の愛しい天使へ』だ。」
淡々と言葉を紡ぐリヒャルトは、何を考えているのかわからない。感情の消え失せた瞳は、暗く淀んで見えた。
また風が強く吹いて、窓の外の木々が暴れ出したのを目の端で捉えた。
「…忙しい身の上だった母がどうしてそこまでして兄様に年齢に不相応な厳しい教育を施したのか…全てはラインハルト兄様よりもジークハルト兄様が優れていると周りに突きつけて、ラインハルト兄様を時期王の座から引き摺り下ろすためだった。」
空が暗くなり始めたのと呼応するように、リヒャルトの声も暗くなる。リヒャルトは窓の外を見やり、誰もいないことを確認して窓の鍵を閉めた。
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