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温くなったタオルを氷水に浸け、新しいタオルを固く絞りリヒャルトの額に乗せると、苦しそうに眉根を寄せて魘されていたリヒャルトの寝顔が僅かに和らいだ。荒い呼吸の度に酷い喘鳴がする。先に飲ませた薬はあまり効果を発揮していないようだった。 太陽が高く登り汗をかく時間帯だというのに、外は真っ暗だ。灰色の分厚い雲に覆われて視界が遮られる程の強い雨足。極め付けは木々を薙ぎ倒す勢いの暴風。この嵐が落ち着くまで、リヒャルトは苦しみ続けるだろう。 頬に張り付いた髪を払うためにそっと触れると、こちらが思わずビクッと身体が跳ねるほど熱い。それなのに汗は一切かいていなくて、まだまだ高熱が続くだろうことが想像できた。 代わって差し上げたい。 この数日で何度思ったことか。 ひと月もの間降り注ぐ雨が、ラビエル王国の豊富な水資源の殆どの由来なのだという。ラビエル王国の人々は慣れているのか、テキパキと家や畑の補強をして嵐に備え屋内に引きこもり、普段はとても賑やかな城下町は人っ子ひとりいない寂しい光景が続いていた。 窓の外で暴れ狂う暴風雨を見て大きなため息をついたマシューは、リヒャルトが冷たいタオルでいくらか寝息を穏やかにしたことを確認してそっと部屋を出た。 そろそろ昼食の時間だが、漸くほんの少し落ち着いたところなのに起こすのは忍びない。時間をずらしてもらおうとマシューは厨房への道を急ぐ。 その道中、姿を現したのは手術着に白衣を羽織ったままのジークハルトだった。 「あ、…こんにちは、ジークハルト様。」 「ああ、リヒャルトの…今様子を見に行こうとしていたんだ。どうしている?」 「あの、ずっと高熱で魘されていて…やっと少し落ち着いたところなんです。だからお昼ご飯の時間をずらしていただきたくて…」 「そうか、ありがとう。…ゲオルグ卿も忙しい身の上だからな、とても助かる。」 「えっ…いえあの、僕がしたくてさせていただいてることですから…まだまだゲオルグさんみたいにテキパキ出来ないし、リヒャルト様の様子を見ていてもわからないことばかりで…」 思わぬタイミングで思わぬ人に感謝を述べられて動揺したものの、自分のできることがあまりに微力で歯痒くて、マシューは大きな耳をしゅんと萎れさせた。 その様子を見てジークハルトはフッと表情を和らげた。 「いや、本当に助かっているんだ。ここまで嵐が酷いとかなり苦しいだろうから…側に誰かが付いていてくれるだけで随分安心できる。私もあの子もな。」 そして筋張った細い腕を伸ばし、マシューの項垂れた頭をくしゃくしゃと優しく撫でた。驚きに顔を上げたマシューを真っ直ぐに見つめる眼鏡の向こうの紫水晶はとても温かい。リヒャルトとよく似た顔と眼差しにマシューが思わずドキッとしたその時、ジークハルトは丁寧にマシューに頭を下げた。 「…出て行けなどと無礼なことを言って、申し訳ない。君は私が思っていたよりもずっと強く弟を想っていてくれたようだ。」 長く伸ばし一つに束ねた美しい黒髪がさらりと重力に従って落ちていく。それを驚愕の表情で見たマシューは、わたわたと大きく両手を彷徨わせて動揺を露わにし、慌ててしゃがんでジークハルトよりも視線を低くした。 「か、顔を上げてください!いけません僕のような兎に頭を下げては…!」 「種は関係ない。私は医者だ、王族も平民もαもΩも命は等しく思っている。」 「でも…」 「でも、なんだ?違うのか?命に序列があると、あっていいと君は思うのか?」 急に厳しくなった声色に、マシューは身体が強張った。 ここで答えを間違えてはいけない気がする。折角マシューを認めてくれた、歩み寄ろうとしてくれたこの人に、また侮蔑の視線を投げられるかもしれない。マシューはゴクリと生唾を飲み込み、心の内を話し出した。 「…思いません、けど。」 ジークハルトは顎に手を当て、ふむ、と小さくうなずいた。 「我々王族がいくら歩み寄ろうとしたところで、君たち被差別者達が敬遠していてはイタチごっこだ。」 ジークハルトはマシューが来た方向、リヒャルトの自室に向かって一歩踏み出した。ザリ、と踵のすり減った靴の音がする。ふとジークハルトの足元を見れば、血痕だろうか、裾がシミだらけの手術着のズボンにボロボロに履き潰された黒い作業靴。一国の王子に相応しい出で立ちとは言えないものだったが、彼がいかに常日頃から患者のために奔走しているかが窺い知れた。 「驕ることなく、臆することなく…差別と貧困に苦しむ者たちと我々の架け橋になる。それがこの王宮で君に…君にしかできないことだ。ゆめゆめリヒャルトの愛情の上に胡座をかくことのないようにな。」 少し振り返ったジークハルトは、厳しい言葉と裏腹に表情は柔らかかった。 マシューはジークハルトと逆方向に歩き出す。当初の目的通り、厨房に行ってリヒャルトの昼食の時間を遅らせてもらうために。 厨房は城の一番奥、賓客の目につかないところにある。早くしなければ、仕度が済んでしまうかもしれない。出来上がってから遅らせてもらうのは忍びないので、マシューは小走りで厨房に向かう。 厨房が近付くにつれて人通りは減っていく。客人も王族の皆様もこんなところに近寄らない。侍従たちも食事の時間にならなければこの辺りには近寄らない。 だからマシューはジークハルトの言葉を反芻しながら、そう考え事をしながら歩いていて、正面に立つフードを被った大柄な人物に気が付かなかった。 「んぐッ!?…ん、んー!!」 フードを被った人物はマシューが通り過ぎようとした瞬間、その小さな身体をフードの中にガバッと抱き込み、何らかの薬品を染み込ませたガーゼを忍ばせた大きな手でマシューの口を塞いだ。 「…すまない。」 マシューの大きな耳が捉えた声は聞き覚えがあったが、その正体に気付くよりも先にマシューは脳裏によぎったリヒャルトの声に従い、いつも胸元に輝いている何より大切な紫水晶の指輪を引き千切ってその場に投げ捨てた。 『身の危険を感じたら、この指輪をその場に捨て置いてくれないか。必ず助けに行くから…信じて。』 オリヴィア王妃の話を聞かせてくれたあの日、稲光を背景に静かにマシューに懇願した彼の顔は、泣いているように見えた。

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