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閑話・異変
何が原因かわからない。
とにかく熱に浮かされて夢と現を頻繁に行き来していたリヒャルトは、ふと唐突にハッキリと意識を取り戻して重だるい瞼を持ち上げた。
ぼんやりした視界が捉える、黒。黒。黒。その中にギラリと光る琥珀色。
「…………なんだ、お前か。」
「お目覚めですか、憎まれ口を叩く程度には回復されたようで何よりです。」
憎まれ口を嫌味で返したゲオルグは真っ赤な顔をしているリヒャルトに水を差し出すと、氷水に浸したタオルを固く絞って手渡した。リヒャルトは水を飲み干すとタオルを受け取り、顔に押し当てて「あー…」と意味のない言葉を発する。主人らしからぬ覇気のないその声にゲオルグは小さくため息をついた。
「マシューは?」
「私が戻った時にはご不在でした。」
「マシュー殿ならここにくるときに会ったぞ。お前が寝ていたから昼食を遅らせるように厨房に頼むと。」
天蓋の向こうから顔を出したジークハルトに、リヒャルトは面食らった。勤め先である病院から直接来たのか、手術着に白衣を着ている。忙しくしている兄が自分を訪ねてくることは稀で、リヒャルトは節々が痛む身体を起こして出迎えようとしたが、ジークハルト本人がそれを制した。
リヒャルトは兄の横になっていろという態度に甘え、枕を適当に重ねてそこに身体を預けることで楽な姿勢を取った。
「兄様、どうかなさいましたか?」
「いや、用があるわけではないんだが…どうしているかと思ってな。辛いだろう今年は。」
ジークハルトは静かに語りかけながらリヒャルトの額に張り付いた髪をサラリと払った。熱のこもった身体には低い体温が心地いい。
銀縁眼鏡の奥に輝く自分と同じ紫色の瞳は心配そうに揺れている。不器用な優しさでいつも気にかけてくれる唯一の兄は、数少ないリヒャルトが弱い所を見せられる相手だ。
「そうですね、発作もですが…胃腸風邪でも引いたのか食っても飲んでも吐いてしまって。お陰で熱も下がらないし散々ですよ。」
「胃腸風邪?全く流行っていないがな…整腸剤を持ってこようか。」
「いや、そういうわけなので飲んでも吐いてしまうから粉薬を返却したいです。」
「馬鹿者。」
コツンと額を小突いたジークハルトはサイドテーブルに置きっ放しになっているリヒャルトの常備薬の小袋を手に取ったのだが、次の瞬間怪訝な顔をして徐にそれを開き始める。
首を傾げてどうかしましたかと尋ねるリヒャルトと、ジークハルトは顎に手を当てて少し考える素振りを見せてから、躊躇いがちに口を開いた。
「…いや、こんなに一回量が多かったかと思ってな。」
「さぁ…ゲオルグが毎回水に溶いてくれるので気にしたこともありません。」
「は!?子どもじゃないんだから自分で飲みなさい!!ゲオルグ卿も甘やかさないでいただきたい!!」
「…誠に申し訳ございません、どうしてこんなになってしまわれたのか…」
ゲオルグがやれやれと項垂れながら二人にお茶を差し出すと、リヒャルトが渋い顔をする。独特の匂いがするそのお茶はリヒャルトの苦手な銀杏茶だ。
「全く…あからさまに嫌な顔をするな。私からの差し入れだ。鎮咳作用がある。」
「酒が飲みたいです。」
「…どうしてお前は身体が弱いくせに身体に悪いものが好きなんだ…」
ジークハルトが呆れ返った顔で大きなため息を吐いて不貞腐れたリヒャルトの頭をくしゃくしゃと撫でながら「嵐が去って元気になったら飲み交そう」と宥めると、子供扱いされたリヒャルトは益々不貞腐れた。
と、その時控えめなノックオンが響き、侍女の「昼食をお持ちいたしました」の声に誰もが顔を見合わせる。
「…マシューは?」
いち早く疑問を口にしたのは、やはりリヒャルトだった。
「おかしいな、時間ぴったりだ…それ以前に戻ってこないのはどういうわけだ?他に何か頼んだか?」
「いえ…」
リヒャルトはやっとの思いでベッドから起き上がり侍女を部屋の中に招き入れる。昼食の時間を遅らせるように聞いていないかと尋ねると、若い侍女は顔を真っ青にして平謝りしながらそんな話は聞いていないと首を振った。リヒャルトとジークハルトが叱っているわけではないことを伝えると少し表情を和らげたが、チラチラとゲオルグの様子を窺っていたので、どうやら王子たちよりもゲオルグが怖いらしかった。
「…ゲオルグ、この部屋から厨房までのルートを洗って来い。」
「御意。」
「何か考えがあるのか?」
リヒャルトはそのジークハルトの問いに答えなかった。
策がないわけではないが、望みが薄い。どうか無事でいてくれた願う他ない。リヒャルトは重い身体に鞭を打って着替え始めた。
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