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水が流れる音がする。 四方八方から水が押し寄せてくる音。まるで濁流。ちっぽけな自分など一瞬で飲まれて泡となって消えてしまいそうなほど。命の水、それは生きるためのものあると同時に死に直結するものでもあるのだ。 マシューはゆっくりと瞳を開いた。 暗い。マシューは困惑して周りを見渡した。蝋燭の火が頼りなく揺れている。揺蕩う灯りが僅かにマシューに状況を知らせてくれた。 空気は湿っぽい。それなのに冷たくて、マシューはぶるりと身震いした。両腕を抱えて摩り僅かばかりの暖をとると、リヒャルトに買ってもらった質の良いTシャツが張り付いて不愉快だった。 「…目が覚めたか。」 小さな声は木霊するようによく響いた。 冷たい空気がキンと冴え渡るだだっ広い空間に、薄汚れたフードを被った大男の姿がぼんやり浮かび上がる。いつの間にきたのだろう、水の音に足音がかき消されて全く気付かなかった。 聞き覚えのあるその声の持ち主を思い出すよりも先に、その大男は自らフードを外して正体を露わにした。 重力を感じさせないふわふわとした豊かな栗色の髪。それを搔き上げると小振りな獅子の耳が顔を覗かせる。筋骨隆々の見事な体躯の上に載っている小さな頭、その中にバランスよく配置されたハンサムな顔。それらを飾るのはマシューもよく知る紫水晶。 「…ラインハルト様…」 ラビエル王国第一王子、ラインハルト・モニカ・ラビエルその人だ。 ラインハルトはうっそりと微笑んで身体を起こしたマシューの目の前に膝をつき、いつかのように無骨な指先でマシューの細い顎を掬い上げた。 「…ジークの忠告通り逃げ出せばよかったものを…馬鹿な子だ。君のせいで今日リヒャルトが死ぬかもしれんぞ。」 くつくつと、それは愉快そうにラインハルトは笑った。マシューは恐怖に身体を震わせながらも、キュッと唇を噛んで心を強く持ち、口を開く。 「ここは…」 「地下水路だ。難攻不落と名高いラビエル王城の守りの要であり、全国民の生活を支える美しい水が作られる水脈。首都どころか国中に繋がっている。ここに迷い込んだらまず出られまい。」 マシューが眉根を寄せて怪訝な表情を浮かべると、ラインハルトはにんまりと笑んだ。しかしその美しい紫色の瞳だけが笑っていない。この世で最も尊く希少な色だといわれているのに、ラインハルトのそれは濁って暗く見えた。 「どうして、こんな…」 「どうして?簡単だよ、リヒャルトを葬るためさ。」 「だから、どうして!」 マシューが声を荒げると、ラインハルトはますます笑みを濃くした。嘲笑とも自嘲ともとれるなんとも言えない不気味な笑みだった。 「…王位欲しさに、と言ってもわからないだろう?お前には。」 濁流の如く流れ続ける水の音が、一瞬止まった気がした。 「オリヴィア第一王妃を知っているか?」 マシューの脳裏に浮かぶ1人の女性。 リヒャルトとよく似た、冷たいサファイアブルーの瞳を持つあの女性。酷く歪で不自然な愛情をリヒャルトに押し付けて、マシューに侮蔑の視線を投げつけて行ったリヒャルトの母親を思い出し、マシューは心がギュッと締め付けられるような痛みに顔を顰めた。 「オリヴィア殿下は、俺が邪魔なんだ。薄汚い獣の血を引く俺なんぞに王位を渡すわけにはいかんのだろうな…自分の子で、人間であるジークハルトに王位を継がせようとあの手この手で迫ってくる。だけどな、ジーク本人にその気がないんだ。だからオリヴィア殿下は誰より賢いリヒャルトを使って俺を失墜させることにしたのさ。」 『母の望みを叶えてくれますね?わたくしのかわいいリヒャルト。』 それはリヒャルトにかけられた呪いのような言葉。マシューが彼女の愛情に不信感を覚えたのは間違いではなかったのだろう。 けれど。 マシューは首をひねる。 リヒャルトは、その呪いに縛られいるようにはとても見えなかった。どちらかといえば寧ろ、その呪いにかかっているように見せかけているようなそんな口振りで、マシューにオリヴィアとの確執を語って聞かせてくれたように思う。 マシューの怪訝な表情に気付かないまま、ラインハルトは再び語り出した。 「流石は母親と言っておこうか…リヒャルトの賢さをいち早く見抜いたオリヴィア殿下は、リヒャルトがそれは小さい頃から言い聞かせてきた。ジークハルトこそ王に相応しいと…あれは立派な洗脳だ、気の毒にな…リヒャルトは母に言われるままジークハルトを王にすべく俺を引き摺り下ろそうとするだろう。そうしたら、俺に為す術などない。リヒャルトと知恵比べなんて、愚かにも程がある。…だから、リヒャルトに死んでもらうしかない。然すれば王位に興味のないジークハルトに王位が渡ることもない。…リヒャルトは身体が弱い、この嵐の時期ならいつ死んだって誰も不審がらないさ。オリヴィア殿下を殺すよりも国に余計な不安を感じさせなくて済むから…仕方ないんだ。」 それはまるで、自分に言い聞かせているようにも見えた。けれどその内容は、酷く身勝手で自己中心的で、あまりにも愚かだ。 マシューは怒りのあまり言葉を失った。 そんなものわかるはずもない、わかりたくもない。王位欲しさに弟を殺そうとするなんて、そんな理由があるだろうか。 ラインハルトは今度こそ自嘲の笑みを浮かべた。暗闇に輝く紫水の瞳が、濡れて見えた。 「僅かばかりの俺の支持者である貴族どもは、俺を御して実権を握るのが目的なのさ。お前に俺の屈辱がわかるか?ただ獣の血を引くというだけで臣下の人間共にバカにされ続ける俺の気持ちが…」 クク、と暗闇に響いた声は弱々しく、すぐに広い地下水路に迷い込んでいった。

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