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※流血表現あり
何か大きな獣が、マシューに覆い被さるラインハルトの身体を跳ね飛ばした。その刹那、熱い何かに包み込まれ、冷たい床を転がって行きラインハルトから引き離される。即座にマシューの肩を抱いて起き上がったその人から香る甘い香りと、荒い呼吸に混じる喘鳴。
ああ、どうして。
「リヒャ……」
「ぎゃああああああああああ!!!!」
助けを望んではいけない、けれど誰よりも愛しい人の温もりに思わず涙が溢れるよりも先に、地下水路につんざくような太い悲鳴が響いた。
「あ、がっ…あ、貴様ゲオルグ…!!よくも、よくも俺の脚を…!!ただで済むと思うなよ!!」
余裕と威厳を一切失ったラインハルトの絞り出すような声にマシューが恐る恐る周りを見渡すと、地に伏せるラインハルトの右脚があるはずの場所から夥しい量の血が流れ出ている。それは遠く離れた場所に投げ捨てられていて、マシューは状況を理解すると同時に小さな悲鳴をあげ辺りに充満する血の匂いに吐き気を催した。
ゆっくりと立ち上がる黒い獣の口の端を、真新しい鮮血が伝う。瞳は琥珀色にギラギラと光っている。その獣がマシューをじっと見つめ低く唸り声を上げると、マシューの肩を抱いていたリヒャルトがゆっくりとその獣を撫でた。
「よくやった、ゲオルグ…もう、いい。」
苦しそうな呼吸の合間に声をかけられた黒い獣は、深く呼吸を吐き前足を持ち上げた。4足歩行に特化した身体が徐々に直線上に真っ直ぐな姿勢を取り始め、それに相応しい筋肉に変貌していく。
極めて獣の血を濃く残した獣人は、訓練次第で獣の姿と獣人の姿を自由に使い分けることが出来るようになる。
そんな話を聞いたのはいつだったか、何年も前他国で起きた戦争がきっかけだったか。なんにせよそんな獣人は極々稀で、ほとんど都市伝説のような存在だ。驚愕の表情でゲオルグを見つめるマシューの意識を取り戻したのは、やはりリヒャルトの貴い声だった。
「…こうなることを、恐れていました。」
それはとても小さな声だった。
けれども、水流の轟音を掻き分けてずっと離れたところまで響いた。マシューの心の奥底にまで。リヒャルトの声は、決して大きくないのにどこまでも響いていく不思議な力を持っていた。
「ラインハルト兄様が、王位を継ぐために誰よりも努力なさっていたことは存じております。しかしながら…ご自身よりも継承権の低い弟を亡き者にしようなど、恥や自尊心は無いのですか。目的のために手段を選ばない冷徹さは時に必要な時もありますが、多くは反感を買うだけです。冷酷非道な王を、ラビエルの民は歓迎しないでしょう。」
「何をッ…!」
「…兄様が俺を疎ましく思っていたことはずっと気付いていました。けれどこんな強硬手段に出るなんて…大人しく第一王子の特等席に胡座をかいていれば、望み通り王位が手に入ったでしょうに。」
「何を馬鹿なッ!お前が、お前が母オリヴィアの差し金で俺を陥れようとしたんだろう!!」
「それは違います。」
リヒャルトはゆっくりと首を横に振った。呼吸が荒く、マシューの肩を支える腕は異常に熱い。眉間に僅かに刻まれた皺が彼の苦痛の程を物語っている。
「…貴方が、馬鹿な真似をしなければ…母の望みなど聞き流して貴方に王位を継いでいただくつもりでした。それが最も平和かつ画期的な王家を築けるからです。貴方の最大の敗因は王位を欲するあまり誰も信用しなかったことです。」
「なん…」
「…何度も手を差し出しましたよ。俺はいつだって貴方に手を貸すつもりでした。貴方に功績を残していただくために貴方が先陣を切って戦える戦術を何度も立てた。貴方に、凱旋の先頭を、何度歩かせましたか?貴方が王になっても…誰にも文句を言わせない為の布石は、常に打って、いまし…ッ、ゴホッゴホッ…」
リヒャルトの胸から聞こえる嫌な音が一段と大きくなり止まらない咳の間、リヒャルトは俯いて口元を覆ったものの背筋を曲げることはしなかった。真っ青な顔で今にも倒れてしまいそうなのに、少しもそんな身体の状態を感じさせなかった。
それはなんとも苦しい、しかし見事な光景だった。
「獣人である貴方が王位に就くことで…長いラビエルの歴史で初の獣人王となることで、世界が大きな一歩を踏み出すはずだったのに…残念です。」
リヒャルトは呼吸の苦しさからか僅かに眉根を寄せていたものの、無表情だった。けれどマシューには、美しい紫色の瞳から溢れ出る大粒の涙が見えた気がした。
それは、兄への決別の涙だったのかもしれない。
「…自首なさってください。マシューにしたこと、俺にしたこと、しようとしたこと…せめてもの、王族として潔い姿が見られる事を切に願います。」
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