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 改札の中から軽くこちらに手を振られて、潤はその姿を見つけた。  松也からメッセージを受け取った翌々日の昼。潤は品川駅で松也と待ち合わせた。誘いの通りに軽くランチをするためだ。  品川駅の改札前で待ちあわせをしたのだが、改札を出てきた松也に、潤がこんにちはと挨拶する。 「お、今日はスーツ姿だ。可愛いな」 「え、可愛い?」  思わず潤が問い返し、自分の服装を見返す。  今日はこの時期の定番のフランネル素材のストライプ柄のダークグレーのスリーピース姿。防寒でコートを羽織っているが、上から下までどうみてもビジネスマンで、可愛い要素などない。それをどういう角度から見ると、そのような感想が出てくるのか。  純粋に首を傾げていると、松也が「ごめんごめん」と苦笑して謝った。 「社長に言う感想じゃないよね。なんか、俺の中で潤君は総じて可愛いイメージなんだよ。失礼しました」  どうも、松也は潤を可愛いと見る向きが強いと感じていた。気にすることではないのだろうが、製薬企業の社長という肩書きはともかく、三十路に片足を突っ込んでいる男としては、その表現にどうしても引っかかりを感じてしまう。そもそも可愛いと言われて喜ぶ男もいないだろう。  松也も今日は仕事のためか、スーツの上にトレンチコートを羽織り、ビジネスバッグを提げている。  聞けば、午後に品川のホテルで専門分野の研究会が開催されるそうだ。一時間ほど時間が空いているという。潤も次の予定まで一時間半ほど時間がある。 「行こうか」  松也が潤を促す。平日の昼間ゆえに待つ時間は無駄とあらかじめ駅前のホテルのレストランを予約してくれていたらしい。潤が恐縮すると、誘ったのはこちらだからと店までさりげなくエスコートしてくれた。  駅前のシティホテルのレストランは人気のランチで満席に近かったが、スムーズに席まで案内してもらえた。松也はこのようなことにあまり面倒くささを感じないタイプなのかもしれない。  席に着いて、それぞれランチセットを注文する。  ウエイターが去ると松也がテーブルに肘を突いて指を重ねた。 「年明けだし、やっぱり忙しい?」  潤は頷く。 「挨拶回りとか、対外的な仕事も増えますし。あと、四半期業績ですから、昨年末までの第三四半期の報告も上がってきますし、いろいろとありますね」  今年は年末年始の連休も長かったですしね、と潤は付け加えた。 「でも、病院は年がら年中忙しいですよね。特に今はインフルエンザも流行っているし」  松也も、そうだねえ、と頷く。 「年末年始は救急外来がかなり混んだそうだよ。年末年始で外来は閉めていても、体調不良や事故は関係なく起こるからね」 「……そういえば、救急で」  思わず口を付いて、しまったと思ったが、すでに遅かった。 「そうそう、颯真君を見かけたって年明けに話したよね。後で聞いたら、救急を手伝っていたそうだよ」 「……救急を?」  潤は怪訝な表情を浮かべた。 「年末年始は突然発情期に見舞われたオメガの患者さんや、生活の変化で抑制剤でのコントロールがうまくできなくなった患者さんが結構来るらしいんだ。特にこの年末年始は長く外来が止まったからね。  そうなると、救急のアルファの先生が対応するのも難しいケースが多くて、アルファ・オメガ科の先生が年末年始は救急に張り付くことになったらしい。今年は颯真君が一手に担ってたようだよ。しかも、手が空いているときは他の患者さんも手伝ってくれたって、救急の先生達が感激してた」 「……そうですか」  だから年末年始に全く顔を合わさなかったのだと潤は納得した。自分があのことでずっと身悶えていた頃、颯真はきちんと仕事をしていたらしい。  それが少し悔しく、そして憎らしい。  潤自身は、あれほど悩んだ今でも、きちんと向き合えている自信がない。なのに、爆弾を落とした当の本人は平然と仕事をしているのだ。  思わず手元に視線が落ちる。こういう……なんというか基礎力の部分で、颯真との違いと実感するのだ。   「潤君と……」  松也が言いかけたところで、ウエイターがランチにセットされているサラダを運んできた。一瞬会話が途切れる。なにか話題を替えようと潤は考えを巡らす。 「颯真君は喧嘩でもしたのかな?」  しかし、話は引き戻されてしまい、しかも不意打ちのような質問に、潤は顔を上げた。思わず顔を繕うことができなかった。 「え」 「いや、潤君も颯真君もお互いの話題に微妙な反応するなって」  松也は意外なことを言い出した。潤がどう答えて良いのかと躊躇っていると、松也が言葉を重ねてきた。 「この間、潤君とお茶をしたという話をね、たまたま颯真君にしたんだ」  なんでそんな話を……と戸惑いが広がるが、松也は待ってくれない。 「颯真君も……なんかわかりにくい反応だったけど、今の潤君みたいな顔をしていたよ、それで。なんか喧嘩でもしてるのかなって思ったまで」  松也の言葉にどう反応するのが正解なのか、分からずに戸惑う。 「あは。松也先生には敵わないや……」  潤は、そうおどけることにした。バレたら困る嘘はつかないに越したことはない。早くこの話題を替えたいし、さっさと片付けた方が良い。 「……ちょっとした兄弟喧嘩です。年末にやってしまって、ちょっとそれ以来、颯真と連絡を取っていなくて」 「珍しいんじゃない?」 「……かも、しれませんね」  潤も苦い笑みを浮かべるが、内心では話を替えたくて仕方がない。 「でも、たいしたことではないので……」  そう畳み込もうとすると、松也が首を傾げた。 「そうかなあ。そう思っているのは潤君だけかもよ。颯真君、本当は出勤は一日で良かったみたいだけど、他の先生のシフトを変わって仕事をしていたみたいだから」  他のエネルギーを仕事に向けていたようにも見えるよね、と言われて潤は何も言えなくなった。  先日、江上が潤のことを颯真に託されたと話していた。その時にもちらりと思ったのだが、この言葉で確信する。  颯真は敢えて、自分と距離を取っているのだと。きっと颯真も、あの年末の数日を思うと平静ではいられなくなるのだろう。  ただ、そのやり場のない矛先が仕事に完全に向くあたりが、気力と体力溢れるアルファの颯真であると潤は思う。自分では、とてもではないが難しい。  松也が、潤君と颯真君は仲が良い分、喧嘩したときの反動が大きそうだよねと分析してみせる。 「仲が良い双子でも、言葉にしないと伝わらないことも多いだろうし……。でも、まあ……たまには徹底的に喧嘩してもいいのかもね。何が原因かは知らないけど、譲れないものは譲れないし」  松也がそう笑うと、潤もなぜか少し救われたような気分になった。それにしても、なぜだろう。颯真のことを考えたくないのに、松也といると颯真のことばかりが話題に上がる。  そこでランチが運ばれてきた。  松也は欧風カレー、潤はシーフードグラタンだ。  潤はテーブルの上に置かれたシルバーのスプーンを手に取って、香ばしく焼かれたチーズとホワイトソースをスプーンですくう。ふわっと湯気が立ち、良い香りが漂った。 一方、松也はスパイスの香りを漂わせながら、ルーをライスにかける。 「とはいえ、潤君はこの間会ったときより潤君は経営者の顔をしているね」  ようやく話題が変わって潤も気が楽になり、笑みを浮かべた。   「それは、そうでしょうね。朝から営業会議に出てきましたし」  昨年末に上市した大型新薬のスタートダッシュの状況や、昨年末に開催された新薬採用会議の結果などが報告されて、年明けにも関わらず気が抜けない案件が多い。 「凜々しい潤君もいいね。さっきの可愛いはやっぱり失言だな」  松也の言葉は面映ゆい気分になる。  凜々しい、可愛い……なかなか言われ慣れない言葉だ。 「まあ仕事ですから……」  そう反応すると、松也は首を傾げた。 「仕事も随分気を張ってるんじゃない? 俺的には、潤君はもっとアルファやベータの部下に託していいと思うけど」  確かに気を張る仕事ではある。ストレスが多い仕事でもあると思っているが、だから部下に託すという考えはこれまで全く持ったことがなかった。  性格もあるだろうが、おそらく仕事をする上でのポリシーだろう。 「うーん。僕自身はそういう経営者ではないんですよね。自分から動くタイプなので」  そうなのだ。そこに居るだけでカリスマ性を発揮する経営者は確かにいる。しかし潤自身はそうではないと思う。誰かに託すより、まず自分が動いて、それを支えて貰うほうが遙かに性に合っているし、その方が人の心を掴みやすいということも経験的に知っている。取引先の新規開拓も、新薬のプロダクトマネージメントも、開発品の導入交渉も、これまで、率先して自分で動いてきた。それに協力してくれたり付いてきてくれる人がいたということだ。  しかし、松也は納得していない様子。言葉を選ぶように少し考える様子を見せる。 「うーん。そう言われるとそのとおりなんだけど……、ほら、君はオメガだから」    思わぬ言葉に潤はとっさに詰まった。 「……オメガだから、ですか」  潤は呟く。戸惑っていた。思えばこれまで誰かから直接的に「オメガだから」と言われた経験があまりなかった。  自分が「オメガだから」と思うことはあっても、家族や友人、会社の仲間から、そう言われて行動を窘められたことはあまりない。 「潤君……?」  グラタンをすくう手を止めた潤に違和感を覚えたのか、松也が潤を見る。  潤は松也を見据えた。 「松也さん。  僕は確かにオメガですが、ちゃんと働いていますし、人並みの体力も気力もありますよ」    少し言葉を選ぶ。  うちの会社は、他社と比べてオメガの社員が多いんです、と潤は言った。 「優秀な人材であれば性別は問いません。五年くらい前までは、それでも抑制剤のコントロールの問題で部署を配慮される人も居ましたけど、今はほとんどありません。MRをやっている人もいれば、開発部署で日々データと格闘している人もいます。もう数年したら、オメガの管理職も出てくると思います。オメガだからという理由は、うちの会社ではほとんどないんですよ」  淡々と語る潤に、松也は視線を逸らす。そしてぽつりとつぶやいた。 「……配慮のない言葉だった。すまない」  明らかにしゅんとなっている松也を見て、潤は逆に焦ってしまった。 「あの、違うんです」 「いや、余計なことだったみたいだ」    視線を交わさずに松也は首を横に振る。こんなに落ち込ませるとは思わなかった。 「松也さんにもっとオメガのことをちゃんと知って欲しくて……」  おそらく日常的にオメガと接する人でなければ、このような微妙な感情を語っても理解してもらうのは難しいと思う。ましてや松也はアルファで、きっとオメガは保護すべき対象と考えているに違いない。それはアルファとして間違っていないのだ。  潤は焦り、話題を替えようととっさに思う。 「あ、あの。松也さんは独身ですけど、番候補の人はいないのですか?」  きっとオメガが近くにいれば彼の考えも変わるに違いないと思った。  アルファでドクターだし、松也さんなら引く手あまたでしょう、と潤が軽い口調で問いかけると、松也は弱ったな、と笑みを浮かべた。 「残念ながら俺には甲斐性がなくて、気が付いてもらえていないらしい」 「え」  急に雲行きが怪しくなってきた。 「もちろん、君のことだよ。俺は君だから心配になるんだ」  潤は驚いて反応できなかった。 「……」 「別に今すぐということではなくて、俺を少し潤君の視界に入れて欲しいということなんだ。俺は君のアルファになれないかな」

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