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「たまには母の手料理が食べたいとか、そういう言葉はないのかしら!」
三連休最終日の夕方、いきなり母茗子が潤の部屋を訪ねてきた。その一時間前にメッセージアプリで、行くから、と来訪を予告してきたので、近所のカフェに避難していた潤は慌てて帰宅しリビングを掃除したのである。
半月近く自宅を放置したまま、掃除さえしておらず、とくにリビングは今の荒んだ生活の中心となってしまっている。とりあえず寝起きしているものを片付けて、掃除機をかけ終わったところでチャイムが鳴ったのだった。
潤が玄関に出迎えに出ると、母茗子がツイードのスーツの上にコートを羽織った姿で立っていた。おおぶりのイヤリングを着けており、いつもの仕事のスタイルだ。
「今日は仕事だったのよ。だから、帰りがけ。今晩一緒にご飯はどうかなって」
そう言って茗子が掲げたのが、スーパーの白い袋。聞けばカレーの具材を用意してきたという。
「颯真がうちにいるのだから、まともなものを食べてないのでしょう?」
自分の食生活のレベル低下を完全に見透かされていた。
ちゃんと食べてるよ、と反論したが、上がり込まれてそのままキッチンの冷蔵庫を開けられ、水と牛乳程度しか入っていないのを確認されて盛大に溜息を吐かれた。
そこまで詳らかにされては何も言えないが、作れないことはない。この一人で住むには無駄に広い部屋で一人で食事を作って食べることにむなしさを感じるのだ。
部屋を探していたとき、潤は独り暮らしなのだからこんな広い部屋は要らないと潤は主張した。しかし、求めるだけのセキュリティが兼ね備えてある部屋を探すと、このくらいの広さになってしまうと颯真と江上に言われた。もしかすると、彼らは二人で住むことを想定してこの部屋を選んだのではないか、と勘ぐってしまう。
茗子はそれでも今し方片付け終わったリビングを見回して、綺麗にしているようねと頷く。胸をなで下ろした潤だった。
茗子がキッチンを占拠してカレーとサラダとスープを作るというので、手伝うことにした。少し手を動かして気を紛らわせようと思う。
すると、茗子が薄く切った玉葱を飴色まで炒めろと指示を出してきた。
フライパンに油を引くと玉葱を投入し、木べらで混ぜる。
不意に金曜日の昼の出来事が脳裏に蘇った。
「俺は君のアルファになれないかな」
アルファらしくない松也の申し出に、潤は言葉を失った。それは番うということか? そういうことなのだろう。
とっさのことで何も反応できない潤に、松也は小さく笑った。
「驚いてるよね……?」
「え、……あ、はい」
「大晦日に再会して、大人になった君に一目惚れしたのかもしれない。可愛い一面があるのに、ちゃんと自立している。そういうところに惹かれた。番がいないそうだから、番候補として主張はしておこうと思って」
松也の言葉に、とっさに潤はまずいという危機感が過ぎる。そしてなぜか、颯真の顔が脳裏に浮かんだ。
自分はそんなことを言われると想定さえしていなかったのに、思わせぶりなことをしてしまったか。つい、幼馴染みだと思って、人恋しさもあって、昔が戻ってきてしまったように思っていたのも事実だった。
「あの……そう言ってもらうのは……光栄なんですが、僕は、今のところ番を作るつもりはないんです」
「今のところは、でしょう?」
松也の食い付きに潤は焦る。
「仕事も忙しいですし。それ以上のことを抱えるキャパがなくて……」
そう視線を逸らすと、松也がそうか……と頷いた。諦めてくれるのかなと思った……。
「それも分かる。すぐに返事は求めてないから、ゆっくり考えて欲しい。俺が潤君の番として相応しいというところも、ちゃんと見せたいしね」
どうも意図が通じていない様子だ。潤はますます焦る。
「あの、そういうことではなく……」
その気がないということをどうしたら分かって貰えるのだろう。困惑していると、松也がじっと見つめていることに気が付く。
「もしかして、もう番候補がいるの?」
「いや、だから……」
「だから、いつもどおりでいいよ。それでもし俺でいいならってなったら嬉しい。これまでどおり、時間が合ったらご飯して、時々どこかに出かけるとかあれば嬉しいな」
驚いてると困惑していると分かっているなら、考える時間くらい欲しかったと思う……。
「潤、玉葱焦げ付き始めてる」
茗子の言葉で潤が我に返る。
「あ、ごめん」
人参とじゃが芋と鶏肉を投入し、すり下ろしニンニクを加え水と赤ワインを入れてぐつぐつ煮込む。
「なに、考え事をしているの」
茗子の鋭い質問に潤は首を横に振る。
「……いや、なんでもないよ」
自分は松也の申し出を受ける気はないのだから、特段話す必要もない。
「で、母さんはどうして今日ここへ?」
「潤とご飯を食べたかったのよ。私も今日は午前中仕事だったし、和真さんは年始早々週末出張だし、颯真はほとんど顔を合わさないし。バラバラよ。でも、潤だったら、わたしの相手をしてくれるかなって」
茗子が愉しげに潤を見る。なるほど、それに、この年末年始はかなり心配をかけてしまったから、こういうのも親孝行かもしれないと思う。
「……そうだね。寂しくなったらうちにおいでよ」
そう言うと、茗子が可愛い子ねえ、と三十路間近のの息子に対する対応とは思えない気安さで、潤を抱き寄せた。
二人でキッチンに立ってさほどに時間は掛からず、カレーとサラダ、スープが出来た。アルコールを用意しようかと言ったが、車で来ているらしい。
ダイニングテーブルにそれらを並べる。久しぶりにこの部屋で誰かと食卓を共にするのだなと思う。
母が作るのは赤ワインとニンニクが隠し味の欧風チキンカレーだ。
潤が口に入れて、美味しい、と思わず顔がほころんだ。
「母さんの味だよね」
懐かしい、昔から食べ慣れた味。すると、安堵したように茗子もスプーンを手に取った。
「母さんが作るカレーは久しぶりだね」
思えば、まとまって実家に帰ることは年末年始くらいで、茗子の手料理もこの間の正月が久しぶりだった。
「子供達は帰ってこないし、最近は和真さんも忙しいから、カレーを作ることも少なくなったわ」
茗子が嘆く。そういえば子供の頃、母は頻繁に出張に出ていたが、母が帰宅するとこのカレーを作ってくれたのだと思い出す。思えば母はあの頃、森生メディカルの取締役だった。自分がその立場になってから実感するが、あの激務をこなしながら子育てを両立させるのは、たとえ近くに両親が住んでいたにしても大変だったろうと思う。
「うちは颯真が作ってくれるよ」
潤が言うと、茗子が興味深そうに潤を見た。
「颯真のカレー、母さんと同じレシピなんだ。母さんが作ってくれたカレーは久しぶりだけど、このカレーはわりと食べてる」
飴色玉葱に野菜と肉を炒め、煮込む直前にすり下ろしニンニクを加えて赤ワインと水、ルーは二種類、仕上がる直前にわずかなバルサミコ酢。颯真が作るチキンカレーはいつもこのレシピだ。
潤の言葉に、茗子が嬉しそうな表情を浮かべる。
潤もその真意は明快に分かる。もう家族四人で食卓を囲むということはなかなかなくなってしまった。しかし、茗子の料理で育ってきたという歴史に変わりはない。時としてそのルーツを、このようなことで改めて感じ、見えない家族の絆を実感するのだ。
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