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ゆっさゆっさと身体が揺れる。
颯真に背負われているその振動に、潤は不思議と心地よさを感じていた。
暖かい背中が否応なしに安堵感を誘う。時折、身体を揺すって、背負い直すその仕草がちょっとした刺激だ。このままがずっと続いてもいいなと思うくらい、片割れの背中は気持ちがよかった。
でも。そんなのんびりとした気分とは裏腹で、自分を背負う颯真の足取りは速く、緊迫感がある。
「もう少しで天野先生の病院に着くから、頑張れよ、潤」
そう励まされつつ、背中に添えられた手は、廉のもの。
あれ、なんで今颯真に背負われているんだっけ、と潤は疑問に思った。
うっすらと目を開けると、隣を早足で歩く廉を目が合う。
「大丈夫か? よりによって街中で発情期が始まるなんてな。俺たちが一緒にいて良かったよ」
発情期……。そうだったと潤は、とつぜん自分が置かれた状況を思い出した。
なにをぼうっとしていたのだろう……。いや、発情期とはこのようなものらしく、こうやって正気と発情の狭間を意識が漂うものと聞く。そんな話を聞いて、恐怖を抱かない方がおかしいだろう。
高校教育課程を最速で駆け抜けた颯真が、国内でも有数の名門校である誠心医科大学の医学部に飛び級で入学したのがこの春。半年もしないうちに、二年生に進級するための試験を受けたと聞いて、一体自分の片割れはどういう頭の構造をしているのかと驚くと同時に、少し颯真の存在を遠く感じた。
しかし、颯真は相変わらず颯真で、試験が一段落したから買い物がてら遊びに出ようと誘ってくれたので、潤は楽しみにしていた。
その日に、よりによってその時に、初めての発情期がやってきたのだ。
高校二年生、十七歳の秋だった。
「潤君、大丈夫かい?」
気がつけば、颯真の背中からは下ろされていて、白い天井の部屋に寝かされていた。視線を少しずらすと、こちらを見ているのは、かかりつけの。
「天野せんせ……」
もともと天野は優しそうな、ベータのドクターだ。両親が全幅の信頼を寄せているから、ホームドクターとして子供の頃から世話になってきた。
でも、自分がオメガと分かってからは、診られたくなくて、意識的に距離を置いていた。天野に診られるたびに、自分がオメガだと実感するためだ。
もちろん、この診察室もずっと避けていた。
「潤君、分かるかい? おめでとう。初めての発情期が来たね」
おめでとうと言われて、潤は動揺した。
そんなふうに言われるような、晴れやかな気分じゃない。
思わず潤は、身体にかけられたタオルケットを引き上げ、口元に寄せる。目が泳いだ。なんて答えればいいのか分からない。
これから自分はどうなってしまうのだろう。
「先生……。僕怖い……」
しかし、その訴えは天野医師にきちんと恐怖として伝わっていない様子。
「大丈夫。みんな通る道だからね。さっき診たら、潤君のお尻の奥が少しずつ柔らかくなってきてるよ。これから徐々に身体が熱くなって、頭もぼうっとしてくるけど、心配はいらないよ。それが発情期からね」
そんなことを言われても……と思う。怖くて、寒くて、心細くて、手が震えてきた。さすがにそれが目に留まったのだろう。
「そうだね。ちょっと怖いなら、抑制剤を打っておこうね」
そう言って天野は、潤の身体に掛けられているタオルケットを少し剥がした。
今気づいたが、タオルケットの下は何も身に着けていなかった。
少し横を向いて? と言われ、訳も分からず介助され、その体勢にもっていかれる。
露出された自分の臀部に、冷たい何かが走る。
「お尻にちくっとするよ?」
そう言われて、潤はタオルケットを握った。
「やぁ……」
抗議の声を上げても、天野医師は止めてくれない。
「怖くない、怖くない。すぐ終わるからね」
そうやってあやされながら、潤は緊急抑制剤を投与された。
そうこうしているうちに、母茗子も来た。
母はここから助け出してくれるのだろうか、と期待したが、涙目の息子を見て、頬に手を寄せた。
「潤、大丈夫。不安に思わなくて良いのよ。天野先生も私もいるから。がんばって乗り越えようね」
その言葉がさらに潤の不安を煽る。
発情期とは「がんばって」乗り越えないとならないものなのか。潤の心に不安と恐怖がない交ぜになった黒いシミが広がる。
「……そ……颯真は」
潤の問いかけに、茗子が困ったように答える。
「いるわ。待合室で待ってる」
そう言われて、なぜか今までで一番安堵した。
初めての発情期に際し、頼りになるはずの天野医師や母の茗子以上に、片割れが近くにいることが、潤にとって、なぜか一番心強かった。
怖い。
でも、颯真が近くにいる。
それでも乗り越えないといけないのは自分で、やっぱり怖い。
気持ちが揺れに揺れているのが分かった。
手を差し伸べて欲しい、怖い。もし自分じゃなかったら。これが夢だったらなんて、馬鹿なことも思う。
どうして、こんなに怖いのか。発情期がどのようなものなのかをカウンセラーから教えられても、不安は払拭されず、恐怖には変わりはなかった。
……それだけじゃない。
きっと見たくない自分をたくさん見ることになる。
中途半端に知識だけがあるせいで、想像できてしまい戦慄するのだ。この数日で、どれだけ深く、直視したくもない自分の性と向き合わねばならなくなるのだろうと。
覚悟なんて、全然できていないのに。
なぜか、ふわりとミントの香りがした気がした。
こんな消毒液くさいところで颯真の香りがするはずないのに。いや、最近は颯真の近くにいても、この香りを嗅ぐことはほとんどない。
颯真の香り……消えてしまったのかなと残念に思っていた。
なのに。
自分が安堵できる片割れの香りに、潤は身を任せたくなる。
颯真……!
片割れの名を叫んだ気がして、潤は目が覚めた。
気がついて目を開けば、自室だった。
一瞬、今僕は……と思ったが、見慣れた遮光カーテンの向こう側からは、明るい陽の光が覗いていて、朝方であることが分かる。
今の夢はなんだった?
潤は瞬きをするのを忘れるほどに動揺していた。
これまで、自分の記憶が飛んでいた、初めての発情期、であったような気がする。
潤にとって生まれて初めての発情期は、高校生の時だった。ただ、記憶にあるのはほんの触りだけで、ほとんど記憶にない。不安や恐怖などが勝って、精神の均衡と保つために記憶を閉じているのではないかと天野医師に言われたことがある。
その記憶にない発情期の間、颯真によると、自宅に匿われ、部屋でほとんど夢中になって自分を慰めていたという話。
記憶にないこと自体も怖いが、今でもその記憶がない一週間に向き合う覚悟もなくて、ずっと触れられずにここまで来てしまっていた。
だって、あの時の発情期が怖いという感覚はとても共感できる。だから、あれは記憶にない部分なのかもしれないと思えた。
何時だろう……とようやく意識が外に向きかけて、身体がとても暖かいものに包まれていることに気がついた。
全身から力が抜けて、ゆったりとしている。
潤は思わず息を飲む。
背後から颯真に抱きしめられていたのだ。
「颯真……」
吐息を漏らすように呼びかけたが、颯真は穏やかな寝息を立てている様子。
背後から抱きしめられているようで、潤から颯真の詳細な様子は覗えない。
「ん……」
背後の颯真が身じろぎした。彼の手が潤の腰を抱き直す。それで潤は改めて自分が置かれた状態を察した。
あれ、もしかして裸だ。颯真も自分も。だからこんなに肌が密着していて暖かいんだと初めて気がつく。
辛うじて下着は身に着けているようだが、それ以外自分の狭いベッドのなかでしっとりとした肌を重ねて、寝ていたのだ……。
なにこれ。
動揺して潤は少し身体を離す。二人の肌の間に空気の層ができて、少し安堵すると、今度は颯真が目を覚ました。
「……潤……? 起きた」
背後の声に、潤はうんと頷いた。
「おはよ……」
衝撃的な格好と体勢で寝ていることが気がついて、潤は颯真の顔を見ることができない。すると颯真がこっち向いて、と促した。
潤は仕方なく体勢を変えて、颯真に向き合う。
照れくさくて顔が見られなくて、彼の鎖骨ばかりを見る。さっきより颯真の香りが強く感じられて、心地よい。好きな香りだ。
「なに照れてんの?」
苦笑した颯真が潤の腰に手を回した。手が温かい。
「だって……」
そんな理由さえ口にできなくて言い淀む。
「もう媚薬は抜けたかな」
颯真の手が動き、潤の顎に指を添えて自分に向けた。
「潤が顔を見せてくれないから判断つかないよ」
寝起きにもかかわらず、思った以上に颯真の目が優しくて、潤は胸が高鳴る。
なんて答えて良いのか分からず、目をそらしてぶっきらぼうに答えた。
「だ……大丈夫……」
颯真も頷いた。
「うん。いつもの潤の目だ」
……なんか、昨夜はとんでもないことを言ったのだが、颯真は覚えているのだろうか。
恥ずかしくなった潤が身じろぎをした。そもそも、ほぼ裸体で今も抱き合っているのだ。これまで何度も一緒のベッドで抱き合って寝たけれど、さすがにこの格好では経験がない。
「どした?」
颯真が楽しそうに聞いてくる。
「……いや、なんか、格好が格好だけに落ち着かなくて」
素直に心情を吐露する潤に、颯真は逆に抱きしめる。肌が密着し、先程以上に颯真の体温を強く感じる。鼓動も聞こえてきそうな感じだ。
「ちょっ……颯真」
焦る潤の髪を、颯真が撫でる。
「もう少し、こうしてていい?」
髪を滑る颯真の手が、気持ち良い。潤はうんと頷いて、颯真の胸の中で瞳を閉じた。
颯真の腕の中は、世界で一番安堵できる場所だ。
今日は何曜日だっけ……とのんびり思った。
昨日は月曜日で、夜に松也さんと会って……。だから、今日は火曜日で祝日だった。
松也さん。
改めて昨夜の彼の様子を思い起こす。
その場所に今、いられる自分でよかったと潤は思った。
もし、あのまま松也に連れ去られていたら……。
思わず身体がぶるりと震えた。
「潤?」
それを敏感に察した颯真の呼びかけが聞こえた。
「昨日は……ありがとう。颯真が来てくれなかったら……僕は」
もしかしたら、颯真に顔向けできない身体になっていたのかもしれない。
あのまま、松也に介抱されて彼の車に乗せられていたら。自分の部屋に連れ込まれていたら。
松也に抱かれたのかもしれない……。
容易に想像できる結論に、身体がぞわりと冷えた。
「もしも、なんて考えない方がいいぞ」
颯真の脚が、潤の脚に絡む。手が、優しく髪をなでる。
暖かい。
「なんで、来てくれたの?」
自分は家で待っていて、と明確に言ったはず。それに対して颯真も分かったと答えた。
颯真は、真面目に考えている様子。
「うーん。兄弟の……っていうか、双子の勘ってやつかな」
片割れのピンチになんとなく胸がざわめくっていうやつ、と颯真が言う。
潤はふっと笑って思わす言ってしまう。
「それ、双子っていうより、番の勘かもね」
潤の言葉に、颯真がわずかに反応を止めた。
「潤……」
「僕ね、年末からずっと考えてた。たぶん、時間でいえば仕事より長く考えてた。僕は颯真とどうなりたいんだろうって。真剣に考えて、答えを出さないといけないって」
本当はそう向き合うまでも結構な勇気が必要で、情けないけど、最初は逃げてばかりだったよ、と素直に吐露する。
自分が辿ってきた道を、潤は颯真に知って欲しかった。
「本音は、前のような普通の兄弟に戻りたいって思ったけど、僕たちはもう後戻りできないところまで来てしまった」
それは互いの身体を知ってしまったから。どう足掻いても知らなかった頃に戻れないのだ。
「颯真にこの間会ったとき、もう僕のことを弟っていうよりオメガと見ているんだなって実感した。僕は……颯真を失いたくない。そのためには僕も変わらないといけないんだって」
この葛藤を颯真も分かってくれるという確信が潤にはあった。きっと颯真も通ってきた道だと思うから。
「……分かってる。俺はお前に酷な道を強いた」
「ううん」
潤は否定する。
「僕だって颯真がいない人生は考えられない。どこに行っても、誰といても、颯真を思い起こす。
それを僕と颯真は生まれた時から片割れだったからと思っていたけど……」
だけど? と颯真が優しく促した。
「僕はずっと颯真の香りが好きだった。それに意味があったなんて想像もしたことなかったけど、言われてみれば納得できた。
多分、子供の頃から、本能的に悟っていたんだと思う」
潤は覚悟を決めた。
「颯真の香りは煽られる」
なんか、どこから話せばいいか分からないんだと、潤は誤魔化した。これまでずっと颯真のことを考えてきた。それを余すことなく伝えようとすると、どこから語ればいいのか分からなくなる。潤の中が、颯真で溢れかえりそうになる。
潤は顔を上げて、颯真を見た。
「僕は颯真のことが好き……。ううん、愛しています」
「潤」
颯真が吐息を漏らすように、名を呼ぶ。
「僕たちは兄弟だけど、僕の本能は、僕のアルファは颯真だと言ってる」
潤は颯真の顔に手を伸ばす。
指で、少し乾いた颯真の唇をなぞる。
「だから、僕をちゃんと抱いてほしい。僕が正気の時に」
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