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 潤は、自分のなかで少しずつオメガとしてアルファへの独占欲が沸いてきていることを自覚していた。  それと同時に、それまでどうにもならなかったオメガという性と折り合いをつけられるようになってきたような気もしていた。  片割れの颯真を、己の番として愛おしいと思う時、潤は確かに自分がオメガであって良かったと思うのだ。  それまでこんな気持ちになったことはなかった。颯真のことを愛おしいと思い、その颯真に選ばれた自分を認めて、ようやくオメガという性を受け入れつつあるような気がする。  顔を洗い、自室で身支度を整える。今日も寒くなると言う話なので、この時期によく身に着けるフランネル素材のスリーピースを選ぶ。白いワイシャツに、ストライプのネクタイを締める。    鏡に映った自分の姿を、潤は改めて見る。いつもの自分だと確認して、僅かに安堵した。  今朝はどうも、昨日までの空気を引きずっていて、気持ちがふわふわしていていけない。これから仕事なのだ、と潤は気持ちを引き締めた。  リビングは、すでに颯真がエアコンで室内を暖めてくれていて、ワイシャツにベスト姿でも寒くはなかった。 「おはよ」  いつもと同じように颯真が挨拶をしてくるのを、潤もおはようと返した。しかし、どこかこそばゆい気分だ。  颯真はすでにワイシャツにネクタイを締めた姿で、キッチンでコーヒーを淹れている。カウンターキッチンから香ばしいコーヒーの香りが立ちのぼる。  潤はコーヒーをあまり飲まないのだが、颯真が朝食を作ってくれる朝は、問答無用でコーヒーだ。  兄のお気に入りの深煎りの豆で落としてくれる濃いめのコーヒーに温めたミルクを入れてもらう。コーヒーの香ばしくシャープな香りを、温めたミルクが柔らかく包んでくれるような風味で、紅茶派の潤も美味しく飲むことができる。 「はい、どうぞ」  廉が来るまでカフェオレでも飲んで待ってて、と颯真に言われる。颯真はキッチンで食事の準備をしていた。  潤もマグカップを手にしつつ、キッチンに立つ。 「どうした?」  颯真が潤に問いかけるも、潤も何かがしたくてキッチンに来たわけではなかった。むしろ自分がいても、準備の邪魔になることくらいは分かっている。 「いや、なんでも」  そう言葉を濁すと、颯真はくすりと笑った。 「おかしな奴だなー。何か用があるんじゃないのか」 「んー。とくに」  正直に言えば、颯真を見ていたかったのだ。潤はマグカップを両手で包みながら思う。    一昨日の夜に颯真とこの部屋に戻ってきてからずっと二人きりだが、一昨日の夜は松也に媚薬を盛られて、さらに昨日はいろいろあって疲れが出たのか熱を出していたせいで、余裕がなくて考えもつかなかった。  しかし、颯真とこの二人きりというのは、今の潤にとっては好きな人と二人きり、ということ。それに気がついてから、どこか落ち着かないのだ。  颯真と二人きりであることに、さすがに恥ずかしさは感じないが、愛する人と二人だけの空間にいるというのは、とてつもなく幸せなことなのだと思う。  そして、少し照れくさい。  どうも自分は幸せ脳になっているらしいと潤は思う。颯真の淹れてくれたカフェオレで身体を温めつつ、きびきび動く颯真を眺めるが、心臓が持たなくなりそうでダイニングに戻った。    ピンポーン。  自宅のチャイムが鳴る。    時計を見ると、六時十五分。いつも江上がやってくる時間。潤が立ち上がり、インターフォンで応じると、やはり江上だった。エントランスの鍵を解錠する。 「廉が来た」  潤が颯真に告げる。颯真が応対に出ようとするのを止め、潤は玄関に向かった。これからエレベーターで上がってくるであろう江上を出迎えるためだ。  少しひんやりとする玄関の鍵を開けたまま、エレベーターの到着を待つ。  エレベーターのドアが開く音がして、そこから出てきたのは江上。いつものキリッとしたスーツにコートを羽織っている。 「廉、おはよう」  潤が先駆けてそう声を掛ける。顔を上げた江上は、潤があえて江上の名前の方を呼んだことを、素早く察したのだろう。こう返してきた。 「おはよ」  いつもとは違うフランクな挨拶だった。  江上を玄関に招き入れると、部屋の鍵を締める。江上が早速確認してきた。 「颯真、帰ってきたんだな」 「うん」  潤の頷きに、江上が問い詰める。 「ということは、お前らの関係はいい方向で落ち着いた、と理解していいのか?」  昨夜颯真が朝食の誘いのメッセージを入れたと話していた。やはり江上はそれだけでほとんどを察している。分析能力と生来の勘の良さ。さすが、親友を十五年以上やっているだけはある。  潤は、先程とは違う、少し恥ずかしい気持ちになりながら頷いた。 「廉と尚紀にはずいぶん心配かけたよね」  そう言って潤は彼をリビングに案内した。 「颯真、廉が来たよ」  颯真に呼びかける。颯真はダイニングテーブルに朝食を並べていた。リビングに入った二人に気がついて顔を上げる。 「おう。おはよ」  そう颯真が言うと、潤の横に立っていた江上がコート姿のまま颯真に飛びつき、颯真を抱き寄せた。 「おい、廉……!」  抱き寄せられた颯真が驚く。 「颯真。……よかったな。本当に」  江上の、深い吐息に続いて漏れた本音。  彼にどれだけの心配をかけていたのか。潤はそれを改めて感じた。  颯真は、抱きしめられた江上の背中に腕を回し、とんとんと宥める。 「本当にありがとう。  お前がいなかったら、俺たちは多分ずっとこじれたままだった……」  これまで何があっても、顔色を変えずに支えてくれた親友。彼の深い吐息が、これまでの表に出てこなかった苦悩を改めて感じさせたのだった。    颯真が用意した朝食は、クロワッサンに野菜スープとコーヒー。颯真が作る朝食のレパートリーは幅広く、和食洋食とその時々の冷蔵庫事情によってかなり違うが、パンには大抵野菜スープを付けてくる。意図を聞いてみると。放っておくと食事さえ忘れてしまう弟の栄養バランスを心配してのことらしい。  今朝はジャガイモと玉葱、ソーセージが入ったトマトスープだった。  焼きたてのクロワッサンはさくっとふわっとしていて、こういうものが朝から食べられることを考えると、颯真が戻ってきてからの食生活の改善ぶりは著しいと思う。  江上に聞けば、今日は寝ている尚紀に朝食を用意してから出てきたらしい。やはり放っておくと朝食を抜いてしまう性格らしく、「お前と似てるよ」と潤を見た。 「まあ今日はいい知らせを聞いたから、あとで尚紀にも連絡しておく」  そう呟いてスープを口にした。 「……尚紀が本当に心配してるんだ」  潤は二人の前では何も言わなかったが、尚紀のアドバイスを思い出した。   「潤さんは、もっと本能の声に素直になった方がいいと思う。頭だけで考えないで、もっと自分の身体の声に耳を傾けて欲しい」    自信満々に、気持ちは追いついてきます、と言い切られた。 「一度、颯真先生の香りに身も心も委ねてみてほしいんです。そうすれば、どうするかはたぶん潤さん自身がわかると思う」  あの、東麻布のレストランで交わした会話。あの尚紀の心を尽くした助言がきっかけで、潤はようやく自分の本心と本能に向き合うことができた。  潤は頷いた。 「僕からも連絡するよ」  潤の申し出に、江上が笑みを浮かべる。 「喜ぶと思う。尚紀は、潤のことを、一番心配してるからな」  潤はふと思い立つ。 「そういえばさっき、廉は颯真にまっしぐらだったね。……僕には抱擁してくれないんだ」  そう冗談めかして潤が不満を言うと、江上は呆れた口調を隠さなかった。 「あのさ……、お前それ、颯真の前で堂々と言うなよ。自覚がなさすぎる。  俺がお前をハグしたら、颯真に背中から刺されるわ」

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