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 自分は大丈夫だと颯真は言うが、大丈夫であるはずがないと潤は心配していた。  これほど長期間にわたり我慢を強いられ、忍耐を求められ、ようやく得たと思ったものを、頭から否定されて。  この片割れは、長い長い戦いの末にようやく見えたゴールが動いたような、やるせなさと無力感を、内心では味わっているのではないか。  そうであれば慰めたい。  颯真にそんな想いをさせていたのは、確実に鈍い自分だったのだから。  帰宅して、それぞれ風呂に入り寝間着に着替えた。すでに日付が変わろうかという時刻で、潤が颯真のベッドに行こうとしたら、腕を掴まれた。  向かったのは潤の部屋。 「今夜は潤の部屋で寝たい」  颯真にもこういう日があるのだろう。自分の部屋のベッドは処分して、完全に颯真と共にするのもいいかもしれないと、潤は思い始めていたが、留まっていてよかったと感じた。  颯真に促されて、久しぶりに自分のベッドに入り、その隣に片割れを迎え入れる。彼の温かい腕に抱きしめられ、胸のなかにすっぽりと入った。 「潤が温かい」  安堵の吐息を漏らすような颯真の声。潤も無意識に彼の香りを求めて胸に顔を擦り付けた。  颯真の香りに迎えられ、トクントクンと心音が聞こえた。  全てが愛おしい。  颯真の胸の中は、潤にとって今や無条件に安心できる場所だ。  だけど、今夜は颯真を癒やしてあげたい。  潤は少し抱擁を解いてもらって、今度は颯真を胸の中に抱き直す。颯真も、黙って潤の胸に抱かれた。颯真の腕が腰に回る。  潤は、颯真の髪を指で梳きつつ、耳元で囁く。 「ねえ。これまで颯真が抱えてきた悲しみを、僕にも共有させて」  思わず颯真が顔を上げ、潤を見上げた。少し驚いたような表情。 「もう、颯真一人で抱える必要はないんだよ」  潤がそう促すと、目の前の颯真はなぜかふわりと表情を緩めた。 「……潤が、俺を受け入れてくれて本当に俺は幸せだ」 「颯真?」 「確かに、俺はずっと一人で耐えてきた。本当に成就するのか分からない一方的な想いを抱えて。一杯一杯なのに何でもないようなふりをして、お前の傍に立ってた」  颯真の言葉に潤は息を飲んだ。その表現が胸に突き刺さる。  でも、今は違うと颯真は首を横に振る。 「潤が隣に居てくれるから、俺は立てている」  その言葉と眼はまっすぐで力強い。 「正直、潤がこの想いを受け入れてくれることが、一番難しいことだと思っていた。  だから、今は本当に全てが報われたと思ってるんだ。この先どんなことがあっても、俺は希望を失わない。父さんのことも、いつか分かってくれると思っている」 「颯真……」  颯真は両手で潤の頬を包み、自分の額と潤のそれを当てた。 「だからお前も、俺を苦しめたとこれまでの時間に負い目に感じる必要はないよ」 「僕?」 「そうだ。もう俺のこれまでを想って胸を痛めなくていいから」  先程、颯真の話でちくりと感じた胸の痛みは罪悪感だった。どこまでも潤を気遣う颯真に、潤は深い愛情と寛容さを感じる。  こんなふうに優しくされて、全てを許してくれて。なにを颯真に返したらいいのだろうと途方にくれる。   「……僕は颯真に甘やかされてばかりだ」 「俺は潤をもっと甘やかしたいけど、それは違うな」  潤の悔し紛れの一言を、颯真はさらりと否定する。  「俺たちは、お互いのことを思いやっているんだよ」  颯真が潤の耳元に口を寄せる。片割れに耳朶を噛まれて、潤は甘い声を漏らした。 「俺は十分潤に癒やされてる。今夜は潤の香りに包まれたかった」  その言葉に艶めきを感じて、潤は少し躊躇ってから目を伏せる。 「うん。……これから、気持ちいいことする?」 「もちろん」  即答だった。照れ隠しに潤が小さく笑い声を上げた。 「ふっ」 「潤がこんなに近くにいて、何もしない手はないだろ。俺はいつも潤の中に入りたいって思ってるんだから」  颯真が身体を離して潤を見た。その目は色気があって、挑発的でアルファらしくて。潤は、心を掴まれ、自分の身体の奥のオメガの部分から、何かがじわっと出たのを感じた。  週末が過ぎて、また新しい一週間が始まった。  営業会議や経営会議といった重要な会議が重なる怒濤の月曜日を越えた翌日。火曜日の午後。  潤は社長室に一人でいた。これから新聞社の取材を受ける予定で、それまでの僅かな隙間時間でメールを裁いている。今はノートPCを持ち歩けばどこでも仕事はできる時代だが、この場所がやはり一番集中できる。  昼前から貯めてしまったメールは結構な量があった。  昨日の営業会議で追加で求めた売上や臨床データの報告が上がってきた。上市後二ヶ月経つ新薬のフェロモン抑制剤は、当初の見通しを大きく上回り、売り上げは上々だ。というか、これだけ派手に売れてしまうと、厚労省から目を付けられそうで危うい。  売り上げが好調であるということは、多くの人に投与されたともいえ、営業会議ではその市販後に義務づけられている副作用などの安全性の調査のデータも話題に上がっていた。  潤はそれらのデータに目を通し、担当者に返信する。    ふと手元のスマホに視線を滑らすと、メッセージアプリに新着メッセージが届いていることに気がついた。スマホを傾けると、送信元は母親の茗子だった。  土曜日。  一緒に布団に入ったあと、潤は予告された通り、颯真にたっぷりと愛された。  発情期は当分先であるはずなのに、本能で定めた番に抱かれて、潤はとろけた。颯真のフェロモンに発情期のようにぐずぐずになって、颯真を求め、喜んで迎えて、乱されて、達して。それでも足らなくて、もっと颯真を感じたくて、彼の上で腰を振って精を搾り取った。 「潤から、こんなに求めてくれるとは思わなかった」  颯真がそんな風に呟いたのを、アルファのフェロモンに惑わされ、ぼんやりと聞いた気がする。たしかにそんなに性欲が強いタイプではなかったと思うのに。  颯真もアルファの体力を惜しげもなく使い、潤の身体の奥の奥まで入り込み、腰を振って最奥を突いて潤に恍惚とした世界を見せ、何度も果てた。    何度求められて達したのか、本気で覚えていないのだが、夜半を越えた頃に気を失い、そのまま眠りについた。起きたのは、すでに日も高くなった時間だったと思う。  わずかに眼を開けると、遮光カーテンの隙間から真冬の日差しが差し込んでいた。  僅かに明るい室内。ベッドの隣にいるはずの颯真は上半身を起こして、考えて事をしている様子だった。  その横顔を、冬の陽の光が照らした。  少し、思い詰めたような真剣な眼差しが、光を浴びて煌めいた。  颯真は諦めない。それは潤も分かっていた。  でもこれからの自分たちを楽観もしていないのだと、その真摯な瞳で察するに十分だった。  自分も何かしなければ。  潤の気持ちも逸った。  そこで潤はようやく気がついたのだ。自分の言葉で、颯真への想いと覚悟を両親に伝えていなかったことに。  颯真にも相談することもできずに迷って躊躇った結果、潤は茗子に連絡を入れた。それが今朝のこと。  少し話がしたいから時間を取って欲しいとメッセージを送った。  茗子は朝から会議が立て込んでいたようで、先程メッセージを見たという。 「いいわよ。土曜日にいらっしゃい」  父和真は、しばらく出張で日本にいないらしい。父が居ないタイミングを見計らったのか、茗子から実家への誘いがかかった。  茗子のメッセージはこのように続いていた。 「こういうことは、まずオメガ同士で話しましょう」と。  茗子のメッセージに返信を済ませると、不意にデスクの内線が鳴った。それを取ると、秘書の江上から。 「社長。東都新聞社の西宮様がいらっしゃいました」  今日の取材は、例の東都新聞社の西宮浩一だ。場所は、このフロアにある役員用の応接室。社長室は実務を裁く場所として、ほとんど来客を入れることはしていない。  潤は頷いた。 「わかった。ありがとう。これから行く」

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