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 潤が来客用の応接室に入ると、西宮と思われる長身の眼鏡をかけた男性がソファから立ち上がり、そつのない笑顔を潤に向けた。 「森生社長、初めまして。東都新聞社の西宮と申します」  差し出された名刺には、東都新聞社、社会部記者と肩書きがあった。  潤も名刺を差し出し交換する。 「西宮さん、初めまして。森生です。今日はよろしくお願いします。  どうぞおかけになってください」  向かい合って応接ソファに落ち着いた。  東都新聞社の社会部記者、西宮浩一は、やはり社会部というより経済部の記者の雰囲気を纏っていた。具体的にどう違うのかと説明を求められると困るのだが、経済部の記者はどこか垢抜けた雰囲気を纏っているものだ。在京五紙のうちの一紙ともなると、首都圏に本社を置く大手上場企業のトップと会うことも日常で、身なりに気を付けているのだろうと思う。  身体のラインに合ったスリムなシルエットのオーダースーツに、品の良いネクタイを締めて、スタイリッシュな雰囲気を漂わせている。  なのに、伊達だろうか、べっ甲柄の太めのフレームが印象的なボストンタイプの眼鏡を掛けていて、一度挨拶を交わしたら忘れられない個性があった。  江上によると、西宮は潤と同年齢であるという。  潤自身、これまで普通の二十代では経験し得ないような、いわば修羅場をくぐり抜けてきたせいで、実年齢以上に落ち着いた空気を持っている自覚があったが、西宮もまた同様のふてぶてしさと落ち着きを併せ持っていた。  同級生でこの雰囲気はなかなか出せないと思う。  この役員専用の応接室には、西宮とカメラマンのほか、広報担当者と江上が控えている。  インタビューの返答に正確を期すために、数字などの細かいフォローを頼んでいた。  西宮からはあらかじめICレコーダーでの録音と、カメラマンがインタビューの間に写真撮影を行うと断りがあった。 「今日はお時間をいただきありがとうございます。  早速ですが、森生社長には幅広いご見識を覗えればと思います」  カメラマンが潤の横でカメラを構える。パシャパシャとシャッターが切られる軽い音。  インタビュー取材が始まった。  冒頭の話題は、昨年の十二月で閉まった第三四半期の業績について。そして、昨年末に上市した、大型新薬のフェロモン抑制剤「ファジック」の売上に移っていった。  ファジックは、昨年の年末に発情期を起こすためのフェロモンコントロール療法を受けていた最中に上市した期待の大型新薬だ。潤自身も発売記念会見に登壇してプレゼンを行うなど、社としても力を入れている。 「非常に切れ味が良いと医療現場でも好評で、予想以上に好調であるという話を聞きます」  西宮の指摘は鋭くて、よく調べている。第三四半期業績には詳細を盛り込むことはできなかったが、潤の手元には詳細で最新の売上報告も上がってきていた。 「おかげさまで、現場の先生方からも待っていたというお声をいただいていて、多くの患者様に使っていただいています」  そこで西宮が疑問を挟んだ。 「ええ、待望の新薬ということで、そのような話も聞きます。  でも、些か売れすぎ、という印象は持ちませんか?」  潤はとっさに苦笑した。 「……そうですね。嬉しい悲鳴です。当初の予想よりも反響が大きくて、ありがたいと思います。  ただ、たしかに西宮さんがご指摘のように予想以上に売れるというのは、多くの患者様にお使いいただいているということなので、治験では判明しなかった副作用も今後は出てくることが予想されます。弊社といたしましても、市販後の調査はしっかりやっていきたいと思います」  潤は意図的に話題をすり替えた。本来であれば、売れすぎていて、薬剤の価格を決定する厚生労働省から目を付けられないかと問われたのだろうと思う。しかし、こちらで懸念していることをマスコミに話せるはずもない。  べっ甲柄の眼鏡フレームの奥の眼がニコッと笑った。その笑顔に潤は内心戸惑った。どうも、その笑みはいきなり懐に飛び込まれるような鋭さを感じる。それがキャラクターなのだろうとは思うのだが……。どこか違和感がある。  西宮のインタビュー取材は、冒頭から妙な緊張感があった。  彼の話題は、現在の森生メディカルの開発パイプラインに移っていった。 「アニュアルレポートに掲載されていた開発パイプラインについて伺います」  製薬企業のレポートには大抵、最新の開発中の医薬品が一覧表となって掲載されている。それは製薬会社にとって、新薬の開発進捗状況が資産の一つで、現在から将来にわたっての企業価値を判断される材料になるためだ。 「申請準備中となっていた、M203ですが……、これはフェロモン誘発剤なのですね」  西宮の声のトーンが少し高くなった。高揚しているのか、ここが聞きたいことなのかなと潤は気を引き締める。 「ご指摘の通りです。ドイツのベンチャー企業から導入したものですが、弊社開発の注射剤と一緒に使うものになります」 「メルト製薬のグランスに続く、二番目の誘発剤……」  西宮の視線を潤は柔らかく受け止める。 「もちろんそのようになれば良いと思っていますが……。まだ申請準備中と微妙な時期なので、詳細についてはご勘弁ください」  先手を打つと、西宮も頷いた。 「微妙な時期ですしね。でも、これは教えてください。申請時期はいつ頃になりますか?」 「近々……、ということで」  潤の苦笑まじりの返答に、予想はしていたのだろう、西宮も微笑んで頷いたが、潤はその違和感の正体が見えた気がした。 「ええ、ただ、まずはきちんと承認申請を行って、審査も通って承認されないことには。気を抜かずに進めていこうと思っています」 「申請から承認まで、今から愉しみです」  ガードの堅さを感じたのだろうが、とりあえず躱せたのでよしとする。  それよりも、この取材は早く終わらせたいと危機感が働いた。     「次は少し大きな観点からお話を伺いたいと思います」  しかし、潤の思惑とは裏腹に、話題が転換された。 「オメガ性とアルファ性、そしてベータ性の人口比ですが、全体から見ても大きくは変わっていないとされています。しかし、アルファ・オメガ領域の治療薬市場に限れば拡大しているようにも見えます。  その理由について、どのようにお考えなのかお聞かせ頂ければと思います」  アルファとオメガは合わせても人口の二割にも満たないとされている。しかし、その領域での研究開発は活発で、新薬も投入されるため市場は年々拡大している。パイが変わらないのになぜ市場は拡大するのか、疑問を持つ着眼点は鋭い。 「たしかに、人口構成比では三つの性の割合は変わりはないように思えます。ただ、オメガ性向けのフェロモン抑制剤については、製品のラインナップが充実してきて、きめの細かいコントロールが可能になったことが要因としてあるかもしれません。  ご存知とは思いますが、抑制剤はいくつかの薬を組み合わせて使ったりするので、一人あたりの薬剤費が高くなってしまっているのかもしれませんね」 「となると、やはり抑制剤の新薬の薬価は、高いということでしょうか」  潤は明快な回答を避けた。 「具体的なデータは持ち合わせていないため、なんとも言えません」  抑制剤は種類が豊富になり、オメガ一人一人のフェロモンに合わせたコントロールが可能になった。それはきめの細かいフォローができるようになった反面、検査や治療の手間が増えたということ。  薬剤の価格が上昇しているから、医療費が増えているという単純な図式だけではないが、どうも西宮はそこに固執しているようにも見える。  この治療領域は常に多くのアルファから注目を浴び、研究費も潤沢に投入されるため、多くの会社が参入している。将来性があり、先行投資をするに値する領域であると、各社が判断しているのだ。 「でも、結果として医療費も増えているんですよね」  西宮は改めて潤に視線を向けた。  アルファ・オメガ領域が保険医療でまかなわれている観点から見れば、結果的には間違ってはいない。医薬品の開発競争が活発になり種類が増えれば、全体の医療費だって増える。しかし、医療費が増えたからといって、その原因が全て新薬の価格にあるわけではない。 「新薬だけで、医療ニーズを全て満たせるわけではありません。選択肢が増えているだけです。  私はドクターではないので、何かを申し上げる立場ではありません。でも個々の患者様に合ったものが選ばれていると思っています」    西宮は、話題と突如変えてきた。 「ただですね、オメガ性に限っていえば、とくに若年層の……若者には、そのような医療の恩恵に与れないような子達がかなりたくさんいます」  彼は社会部の記者だ。このような話題も興味があるのだろうが、事前に提出された質問項目に記載されておらず、専門外であるため話を振られても森生メディカル社長として答えられることは限られる。  潤の頭が冷えていく一方で、西宮の口調は熱を帯びていく。 「中には、オメガ性ということでいじめに遭ったり、高校に進学しても勉強についていけずにドロップアウトしてしまうケースもあります」  義務教育最終年で判明する第二の性は、その思春期の微妙な時期故に、人生を大きく変えてしまうこともある。  判明後に第二の性が顕著に成長に現れ、それまでの生活が一変してしまうこともあるだろう。潤の通っていた中高は進学校で、比較的アルファが多かったため、そのような話はあまり聞かなかったが。  潤は少し考える。  アルファ・オメガ領域の医療費の増加と、フェロモンコントロールがしにくい思春期のオメガが置かれた現状。  彼はここからどのような話に導きたいのか。  西宮の、べっ甲柄の眼鏡の奥の眼をちらりと見たが、潤には予想がつかなかった。

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