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 その意図が読み取れないまま、潤は口を開く。 「……一般的に知られていることなので、西宮さんもご存知と思いますが、思春期のオメガ性のフェロモンコントロールは難しいということはあるのかもしれません」  一般的に、フェロモンが安定しない十代は、突然発情期になったりすることが知られている。潤も初めての発情期はそのような形に近かった。  特に初めての発情期は、コントロールも難しいとのことで、番候補がいない場合は、強めの緊急抑制剤を打って楽に越えさせるという話を、颯真からも聞いた。  西宮が我が意を得たりとばかりに頷く。 「突然学校で発情期になって大騒ぎとなり、明けて登校するといじめに遭うという話もあります。最近ニュースもなりましたが、アルファの大学生による集団暴行事件をご存知ですよね」  西宮にそう問われ、潤も頷く。 「ええ……」  それは痛ましい事件だった。横浜に住むオメガの高校生が初めての発情期を街中で発症してしまい、ちょうど近くにいた複数のアルファの大学生がそのフェロモンに当てられ襲ってしまったという。ヒートを起こしたアルファ数人に、その少年は数日間慰みものになったらしい。あまりに痛ましくショッキング事件であるが、ちょうど話題となる事件も少なかったためか、格好のマスコミの餌食となっていた。その少年がオメガの母親との関係が良好ではないために家出しがちだったことや、高校を中退していたことなども晒され、ここしばらくテレビのニュースやワイドショーを賑わせていた。 「弱者であるオメガの少年があのような事件の被害に遭うのも、性差というだけでなく、もっと根源的な原因があると思うのです。  また、オメガの子はご両親の影響も大きそうです。たとえば、相手のアルファと番になれなかったオメガの片親の家庭に生まれたりすると、親が自分のことで精一杯で、子供に手が回らず、結果としてネグレクトという確率も高まるという調査結果もあります。  社会的な弱者が貧困層に陥り、そこからなかなか這い上がれないという社会構造もあるようです」  潤は頷くものの、話題の思わぬ方向に内心で戸惑う。  この取材のテーマは「フェロモン抑制剤と促進剤の進化を踏まえた今後の事業展望」だったはず。  なぜ、このような話になっているのだろう。  確かに、西宮の指摘と分析は鋭い。この世の中でオメガが一人で子供を育てるというのは大変なことだし、子を成しておきながら番にされなかった、そのストレスは計り知れない。オメガとしての自覚が芽生えてきた今、もし自分がそのような立場に置かれたら……と想像すると、恐怖しかない。  もちろん颯真は違うが、おそらくそのような誠実なアルファと気持ちを通じ合わせたことができたのは、単に幸運なだっただけなのだろう。  潤がそんなことを考えていると、森生社長、と西宮から呼びかけられ、注意を引きつけられた。 「そういう人たちの立場から見ると、やはり今の抑制剤の価格は高いと感じませんか?」  潤は思わず頷きそうになり、自分を慌てて律した。 「そのような人たちから見れば、アルファ・オメガ科も大病院に設置されているだけなので、敷居が高すぎるように思います」  開業医の先生でアルファ・オメガ科を開設すれば、アクセスも良いのでしょうが現状は厳しいですね、と西宮が頷く。  確かに。  森生家のホームドクターの天野医師は、アルファ・オメガ科の専門医でありながら、開業している稀有な存在だが、実家がある地域は昔からアルファとオメガが多く住んでいる。明治時代は西洋人が多く住んでいた歴史があり、いわば高級住宅街ともいえ、特異な例になるだろう。  アルファもオメガも総人口からいえば少ない。そのために、専門病院を開設するまでに至っていないのが現状だ。 「研究領域としては歴史も浅いですし、これからの分野ですから。少しずつ増えていくんだと思います」 「研究開発費が潤沢に投入される領域ですが、そのようなあまりお金にならなそうな部分ですと人気がないのも仕方がないですよね」  西宮の言葉に棘を感じるが、潤はあえて無視した。 「抑制剤については、たしかに高薬価のものもありますが……。もちろんそのような事情を相談すればドクターだって考えてくださると思いますよ」  このやりとりに、潤は少しうんざりしていた。少し先回りをしてみることにする。 「西宮さんは、社会部の記者さんですから、やはりオメガ性の子供たちが置かれた環境などにもご興味があるのですか?」  西宮はあっさり頷く。 「ええ。格差問題や差別問題に興味があります。その原因は何なのかと根本に立ち返った時、まずは環境から調べていく必要性を感じまして、学校や支援団体、医療機関やメーカーさんなどを回っています」  そういうことですか、と潤は頷いた。 「私は薬屋ですから、自社のフェロモン抑制剤や誘発剤や一般的な医療環境についてお話することはできます。しかし、そのような部分については、手に余るので、明快にお答えすることは難しい。むしろ、きちんとした専門家に取材なさるのが良いかと思います」   潤がそのように窘めると、西宮は意外なほどにあっさり引き下がった。 「少しお答えにくい部分にも触れてしまったかもしれません。申し訳ありません」 「いえ……」 「勝手ながら、森生社長はつい気軽に話してしまう、気安さみたいなものを感じてしまい、気を引き締めねばなりません」  西宮の雰囲気が少し変わった。  そんな言葉に潤は苦笑した。 「それは……。まあ、同じ年ですしね」  すると、西宮もその言葉に乗った。 「社長はご存知ないかもしれませんが、実はわたしは同じ大学の出身で、学部も一緒なのです。勝手に親近感を抱いていました」  実は江上から同窓生であると聞いてはいた。ただ、潤は大学での付き合いはごく少数に限られていたため、敢えて話題にはしなかったのだが、西宮から言ってくるとは思わなかった。 「西宮さんが同級生だったと聞いて驚きました。ただ、私は不真面目な学生だったので、大学ではほどんと友人がいないのですよ」  潤がそう弁明すると、意外にも西宮も頷いた。 「ご認識いただいていて光栄です。当時、社長の噂は学内で聞いたことがありました。  すでに社会に出て様々な経験を積まれているのに、学部での成績も優秀だと」  大学に入ってしばらくしてから、潤は、父母の人脈を頼り、いくつかの企業でインターンとして働いた。講義には欠かさず出席し、一年半でほとんどの単位を取得。就活期間を除いた残りの学生生活は、本格的に仕事をしていた。当時は本当に追い立てられるようにガツガツしていた。 「周囲からはどれだけ生き急ぐのだと言われましたが」  潤は苦笑した。それでも颯真のスピードには遠く及ばないと思っていた。  オメガに学術的な優遇制度は存在しない。それでも限られた四年間の中で優秀な成績を修め、さらに学生の身分では得難い、ビジネス感覚を磨いた。大学卒業後は、森生メディカルに入社することが、ほぼ決まっているようなものだったから、潤には時間がなかったのだ。  ただ、単なるオメガがそんなに一生懸命やってどうなるのだという陰口もないわけではなく、好意的に見られていただけではないと知っている。当時を思い返して少し苦い気持ちになった。 「森生社長のお若いながらも組織を率いることができるビジネスセンスは、そのようなところで培われたのですね」  西宮は納得したように頷いた。しかし、べっ甲柄の眼鏡の奥の目は笑っていない。 「……いえ。やはり大学時代は少し楽しんでおけば良かったと、今更ながら後悔している有様です」  潤は苦笑した。  西宮が居住まいを正した。 「いえ、他愛のない話を失礼しました。  話を戻したいと思います。社長は、今後やはりアルファ・オメガ領域は拡大していくと思われますか?」  西宮の口調が変わったが、潤も再び気持ちをシフトチェンジする。話の主導権を握るには、直感的にここだと思った。 「西宮さんが仰る『拡大』が何を指すのか。それによりますが、少なくともオメガのフェロモン療法については、拡大というより充実していくと思います」  潤は敢えて拡大ではなく充実という言葉を使い、話の舵を切る。  西宮は興味を持ったようで僅かに身を乗り出してきた。 「充実、ですか」 「そうですね。ただ、オメガに広がっていくというより、オメガだけでなく社会全体に還元されていくと考えているからです」 「具体的に説明いただけますか?」 「アルファ・オメガ領域の拡大・充実により、当然ながらオメガ性に対してはフェロモン療法へのアクセスが容易になります。どのくらいかかるかは分かりませんが。それによりオメガは、より社会に参加しやすくなっていくでしょう。結果、社会全体にそれが還元されていくのだと思います」 「なるほど、廻り巡って社会に、というお考えですね」  西宮は納得したように呟く。潤も頷いた。 「我々製薬業界の人間はもちろん、医療関係者の方もそこを目指していると思っています」  ただ、それには大切なことがあります、と潤はもったいつけて言葉を繋げる。西宮もそれはなんでしょう、と食い付いてくる。 「社会を構成する大多数のベータの方が、アルファやオメガを理解することです。本当の彼らのことを知って欲しいと思うのです」 「知る、ですか」    潤は大きく頷いた。 「例えば弊社には全社員の一割弱がオメガ性の社員です」 「多いですね」  潤は、小さく笑みを浮かべ、柔らかく受け止める。 「おかげさまで、優秀なオメガ性の社員が集まってくれています。  彼らにはやはりフェロモンの周期があり、体調が整わなかったりもしますが、そこはアルファだけでなく、ベータの社員にも理解があり、情報共有を徹底するなどしてカバーしあっています。もちろん、弊社がアルファ・オメガ領域の薬剤を開発販売する製薬会社だからこそ、オメガを知り理解しようという土壌があるのですが」 「御社は、先代の社長もオメガでしたよね」 「ええ。トップがオメガ、というのは社員の理解もスムーズにいきますね。私もオメガですし、二代にわたってということですから、弊社では第二の性への理解への土壌は圧倒的にあるとは思っています。  ただ、一般に対してはそのように簡単ではありません。そのような理解を社会に広く伝えるのは、西宮さんをはじめとしたマスコミの皆さんのお力がないと難しいと思っています」  潤は狙って打ち込む。 「相手を理解する、というのは差別や格差是正の第一歩です」  西宮は潤を真っ直ぐに見つめる。 「マスコミの方の発信力は我々などに比べるべくもない。西宮さんは、きちんとした問題意識と視点をお持ちのようなので、ぜひお願いしたいと思っています」  潤はそう言って、べっ甲柄の眼鏡の奥の瞳を見つめた。

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