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「江上家の夕食にご招待」というのが、潤には初めての経験だった。あまりに意外な誘いで、一瞬反応ができなかったくらいだ。 「突然ですみません。尚紀が会いたいと」 「尚紀?」 「ええ。腕によりをかけて夕食を作るので、潤さんをご招待したいと言っていまして」  思わず潤は、江上に食い気味に問う。 「え、尚紀が作ってくれるの?」  江上は深く頷く。 「本人は張り切っていますよ」  実は昨日からメニューをあれこれ考えているようで……と、その番の行為を愛おしそうに江上が微笑みを浮かべた。  そんなことを聞かされては、何をおいても駆けつけねばならなそうだ。尚紀が作ってくれた夕食を断るほどに優先しなければならない予定などはないのだが。 「それは、すごい嬉しいな」  潤はその突然の誘いを、快く応じた。 「あと、一つ相談があるのですが……」  江上は自分に相談など珍しいと潤は思う。しかし、いつも心配をかけっぱなしの親友にそう言って頼ってもらえることが嬉しい。 「うん。何だろう?」  先程の憂鬱な気分は消えていた。  その夜、帰宅する江上と一緒に、潤は江上家を訪ねた。 「潤さん、いらっしゃいませ! 廉さん、おかえりなさい」  玄関の扉を開くと、待っていた尚紀が弾けるような笑顔で迎えてくれる。番の家は自宅としてリラックスできるのだろう、尚紀はいつもよりもルーズで大きなサイズのシャツとジーンズ姿で潤たちをで迎えてくれた。 「こんはんば。お招きありがとう。もう体調は大丈夫?」  潤は先週の週末に尚紀とランチをする予定だったが、体調不良でリスケしたことを思い出していた。  尚紀は玄関にスリッパを出しながら、頷く。 「はい。もうすっかり。でも、この間はごめんなさい」 「いいよ、そんなの。次回またの楽しみにすればいいんだから」  潤は尚紀に手にしてた紙袋を渡す。 「大したものではないけど。廉のセレクトだよ」 「え、廉さんの?」  潤は頷く。尚紀に渡したのは、品川駅で買った有名パティスリーのプリンだ。尚紀が紙袋の中を覗くと、整然と鎮座しているプリンの瓶が目に入ったのだろう。明らかに目の色が変わり、キラキラと輝いた。 「ありがとうございます!」  尚紀は潤と江上に弾けるような笑顔を見せた。   「プリン好きなんだね」  潤のつぶやきに尚紀は頷いた。 「はい。特にこのお店のプリンはなめらかで好き」 「なるほどね」  江上がこの店を迷わず選んだことに納得した。  覚えておこうと思った。    潤はリビングに入るとスーツの上に羽織っていたコートを脱ぐ。尚紀がそれを受け取り、ハンガーにかけてくれた。江上も自室でコートとジャケットを脱いできた様子。尚紀がダイニングテーブルに案内した。 「突然お誘いしてごめんなさい。  廉さんが、今日ならば潤さんも夜に時間があると思うからって……」  たしかに突然の誘いで驚きはしたが、それは決して不快なものではない。  尚紀の恐縮ぶりを潤は笑って窘める。 「そんなの、気にしないでいいよ。僕と尚紀の仲だし」  潤は職務上、江上にスケジュールをがっちり管理されている。しかも、先日の松也の一件のせいか、ここ最近はさらにそれに拍車がかかっているようにも思える。 「それよりむしろ、ご馳走になる方が申し訳ない」 「気にしないでください。僕、料理好きなので。いつか潤さんに手料理を食べて欲しかったんです」    尚紀の料理好きは冗談ではないらしい。テーブルの上にはすでに食事の準備が整っており、潤が席につくと、尚紀が料理をキッチンから運んできた。  並べられた料理は彩り豊かで華やかなもの。彼が腕によりをかけて用意してくれたものであると一目でわかる。  大皿に盛られたのは麻婆豆腐だ。山椒と花椒、甜麺醤のピリッと濃厚な香りが食欲を誘う。その脇には、鰹節がかけられた蒸し茄子に、豚肉とにらの卵炒め、トマトが入った春雨のスープと野菜たっぷりで栄養バランスも考えられている。 「すごい。美味しそう」  潤は思わず感嘆した。出会った当初にロイヤルミルクティを作ったことがないと言っていたから、あまりキッチンに立つタイプではないのだろうと思っていたが予想外だった。 「尚紀は料理が上手なんだね」  潤の絶賛に尚紀が少し照れ臭そうに笑みを浮かべる。 「好きなんです。今日は潤さんが来てくれるというので、張り切って作っちゃいました」    尚紀が作ってくれた麻婆豆腐は手作りで、花椒が効いた本格的な味わいだった。潤が美味しい美味しいと感激していると、そんなに難しくないですよ、と尚紀は話してくれたが、江上がそこでストップを入れた。 「尚紀、潤に料理は無理だな。こいつは食べる専門だ」 「そうなんですか?」  潤は苦笑して素直に頷く 「そうなんだよね。颯真の方が上手い。僕もできない訳じゃないけど……」  潤が笑ってそう応じる。一応できない訳ではないと主張はしてみたものの、江上は苦笑している。 「颯真がいないと、お前の食生活は相当荒れるけどな」 「颯真先生は料理するんですか?」 「ストレス解消になるって言ってるよ」 「朝食担当もあいつだしな。飲みに行って、うまいメニューに当たると、どうやったら家で作れるか、舌コピーを試みてるよ」  江上の言葉に潤も頷く。 「やってるやってる。だから颯真はおつまみのレシピは多彩だよ」 「そうなんですか」 「魚も普通に捌くしね」 「塩辛を自分で作ったりしてるもんな」 「やってるね。楽しいみたいだよ」 「俺も少しもらったけど、あれ美味いんだよ」 「確かに」 「そんなに美味しいんですか? 僕も教えてもらいたいです!」 「今度頼んでみたらいいよ。廉も喜ぶし、きっと教えてくれるよ」  ね、と潤は目の前に座る親友に笑って問いかけた。  尚紀の手料理を囲んでの楽しい食事となった。  大皿に乗った料理は瞬く間になくなり、三人で食卓を片付けて、尚紀が食後にダージリンティーを淹れてくれ、先程買ってきたプリンを一緒に出してくれた。 「で、尚紀は僕に何か話でもあるの?」  潤はテーブルに腰を落ち着けた尚紀に向かう。  尚紀が手料理を振る舞ってくれるだけのために、突然招かれた訳ではないだろうと潤も思っていた。  何か話があるのだろうと思っていた。  尚紀は少し驚いたように潤を見て、ちらりと江上に視線を流した。江上はそんな尚紀を優しい眼差しで見守っている。 「あの……。  実は、どうしても潤さんには一番最初にお知らせしたくて」  尚紀が少し照れたような、はにかむような笑みを浮かべて、潤を見る。 「僕……、赤ちゃんができました」 「え」  潤が思わず声を上げた。思考が止まった。  それが少し尚紀の不安を誘ったのかもしれない。 「潤さん?」  尚紀が少し表情を曇らせた。 「……ほんと?」  潤は聞き間違えではないかと確かめる。今、廉との子を妊娠したと聞いた気がした。 「はい。昨日、颯真先生に診ていただいて。赤ちゃんの心拍が確認できたからって」  颯真の名前が出てきて、一気に現実味を帯びた気がした。  そして、しみじみと尚紀を見つめた。  潤はようやく尚紀の言葉を実感として受け止めることができた。  そうか。  尚紀に廉の子供ができたのか。  親友の子供が。  潤は、尚紀とその隣に座る江上を見る。 「おめでとう。良かったね」  そう笑ったつもりだった。潤の視界が急激に潤んで、目からホロリと温かい涙が落ちた。 「あれ」  思わず手を当てるが、涙は止まらない。 「え? あ、あの、潤さん?」  尚紀が狼狽えているのが分かる。  スラックスのポケットからハンカチを取り出すが、ほろほろと流れる涙に間に合わない。ダイニングテーブルの上に、はたはたとそれが落ちた。  慌ててハンカチで自分の目頭を抑える。  深呼吸を繰り返して呼吸と気持ちを整える。  良かった。本当に。  潤の胸に湧き上がっていたのは、安堵だった。

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