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尚紀と初めて相対したのは、誠心医科大学横浜病院のアルファ・オメガ科の診察室前だった。
美青年にいきなり声をかけられ、驚いた記憶がある。その時の印象は、美形だなという、ごくありきたりなもので、近くにいた女性が「モデルのナオキ」と言っていて、ああ、なるほどと思ったくらい。それから、車窓から見ていた巨大広告で魅惑的な視線を向けていた人気モデルのナオキが、中学校時代の後輩だったことに大層驚いた。
最初は警戒したものの、彼が見せる人懐っこさと颯真への信頼感を見て、いつしか本当の弟のように思うようになっていた。
誠心医科大学横浜病院に入院してしている頃の尚紀は、どこか危うい雰囲気があった。
番を亡くしたことに端を発した体調不良で、仕事もままならない状態だったというのもあるが、幸いながら適応になった新たな治療……ペア・ボンド療法への不安が大きかったために違いない。
もし、ペア・ボンド療法が、自分のせいで失敗したら……と、いつだったか暗い夜の病棟内で独り思い悩んでいた。それは新しい番への想いが溢れていた。フェロモンが安定しないと、辛そうな様子でベッドに横たわっていた姿も脳裏に蘇る。
尚紀はそんな一つ一つの壁に遭遇して乗り越えて、ようやく江上の番となったのだ。
妊娠したと聞いて、潤のなかでそれらの記憶が一気に押し寄せてきて、感情が溢れかえったのだ。
尚紀が困ったような声で語りかける。
「潤さん、そんな泣かないで」
潤の涙は止まらなかった。どうも今年に入って、この二人の前では涙ばかり流してる気がする。しかし、これまでは戸惑いや不安からくる涙だったが、今日は喜びの涙だ。
尚紀が、江上の隣の席から潤の隣に移動してきたのが分かる。心配をかけてしまっているなあと思う。
「ごめん、でもホントに嬉しくて」
潤も、僕が一人で盛り上がってるね、と苦笑する。
潤は尚紀を抱きしめる。
「本当におめでとう。良かった……。本当に、良かった」
なんて、温かいのだろう。
これまでの彼が歩んできた道のりを思うと、本当に感慨深い。ようやく掴み取った……、辿り着いたような気さえする。来るところまで来れたという安堵が潤の胸の内を支配していた。
きっとこれで尚紀には辛いことは降り掛からなくなるだろう。相手は江上だ。間違いなく、幸せな人生を送る未来が見える。胸に込み上げるのは、そんな気持ちだった。
潤は自分のことのように安堵して、深呼吸を何度か繰り返した。
尚紀の隣に寄り添うのは、番である親友。これは彼らにとって、望んでいて来るべくして来た瞬間だ。
潤にとっては、親友に子供ができるというのは初体験で、不思議な感覚だった。
江上に言葉を掛けることを忘れていたことに、潤は気がついた。
「廉もおめでとう。お父さんになるんだね」
一時は彼のことを好きだと思っていた時期もあった。彼が選んだのが自分ではなく尚紀だったと知った時は、大きなショックを受けたが、それももう遠い昔のことのように思える。
「喜んでくれるとは思っていたが、予想以上だった。ありがとう」
江上はそう言って苦笑した。
確かに、颯真を受け入れる前の自分であれば、まだオメガという性を受け入れかねていたならば、一瞬躊躇したかもしれない。もちろん、尚紀と江上には辛い時期を支えてもらったが、オメガとしてアルファと番うという生理現象を完全に受け入れられなければ、この事実を心から喜べたか、潤にも分からない。
潤は尚紀の腹部に視線をやる。二人の愛と絆の結実が、尚紀の中で育っている。
「元気な赤ちゃんを産んでね」
色々と言いたい祝福の言葉はあるはずなのに、胸の中で膨らむばかりで、ありきたりなものしか出てこない。それでも、潤の言葉に、尚紀は柔らかい笑みを浮かべた。
「潤さん……、ありがとうございます」
「僕、叔父さんになる気分かも」
潤の感慨深い呟きに、尚紀が、ふふっと笑い声を上げた。
「僕のお兄さんですから、それは間違っていないかも」
「じゃ、ベビちゃんにそう自己紹介しておこうかな」
お腹触っていい? と潤が聞く。
「まだぺったんこですよ?」
尚紀が苦笑しているが、潤がうん、と頷くと、どうぞとシャツを少しまくってくれた。
潤が尚紀の下腹部に手を当てる。
尚紀のお腹が温かい。
潤は、元気に生まれてきてね、と内心で語りかける。
「予定日はいつ頃なの?」
尚紀が、夏です、と答えた。
「颯真によると、オメガの男性の出産は、通常のベータの女性よりも早いんだそうだ」
確かに、身体の構造上、オメガの男性の出産は、通常よりも四週間以上早いと聞く。それだけ出産のリスクもあるのだろう、発情期における妊娠率が高いとも言われている。
「くれぐれも、身体を大切にしてね」
その言葉に尚紀も頷く。
無事に生まれてきてくれさえすればいい。
潤はそう願った。
尚紀と楽しく話をしながら、プリンを食べて紅茶を楽しんでいると、いつの間にか江上の姿が消えていた。
気づけばいなかったので、潤が少し訝しげな表情を浮かべると、電話をかけに行ったようですよ、と尚紀が教えてくれた。
潤も納得する。そして、また僕が面倒な仕事をさせてるからね、と苦い笑みを浮かべると、お仕事ですものね、と尚紀も気にしていない様子。
実は、それは江上と示し合わせたものであった。
こんな楽しく幸せな気分の中で持ち出す話ではないのだが……と躊躇いも覚えるが、自分を頼ってくれた江上の気持ちは裏切れない。
「ね、尚紀」
潤は少し口調が固くなっている自覚があった。
「なんですか、潤さん」
一方、尚紀が穏やかな表情で応じる。
「ちょっと聞いたんだけど……」
そう、潤は切り出した。
「尚紀が最近横浜の事件をかなり気にしてるって。廉が心配してるよ?」
横浜の事件、とは、横浜で十代のオメガの少年が街中で発情期にみまわれ、その場にいた数人のアルファから暴行を受けたという、西宮がインタビュー取材で話題にしていた一件のことだ。
潤がそう切り出すと、尚紀の表情が明らかに曇った。
「廉さんが……?」
潤が頷く。
「うん。僕に相談するくらいだから。
あと、何も話してくれないって、少しいじけてもいるみたい」
そう告げると、潤からみれば想定外の反応が返ってきた。尚紀が意外なほどに動揺する様子をみせたのだ。
「どうしよう。潤さん、廉さんがそこまで見てるなんて」
潤は心配になって、尚紀の手を思わず握る。
「大丈夫だよ。どうしたの?」
「僕……廉さんに、心配をかけるつもり全然なくて……」
「うん」
わかってる、だから落ち着いて、と潤は尚紀に語りかける。
「でも、どうしても気になってしまって仕方がないんです」
そして尚紀がわずかに口を噤んだ。それは何かを言うことを躊躇うような、わずかな間。
「尚紀?」
尚紀が潤を見上げる。可哀想なほどに瞳がゆらめいている。
「痛ましい事件だから?」
尚紀が困ったように首をかしげた。
「確かに痛ましいんですが、そうではなくて」
うん、と潤はその先を促す。
「なんか自分に似てるなって思うから……」
尚紀はそう言って、唇を噛んだ。
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