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以前、とは言っても、まだ十日程度前の話であるのだが、潤は尚紀に対して自分の過去に対して「どうにもならずに吐き出したいことがあれば、遠慮せずに自分を使って欲しい」と話したことを思い出していた。
彼の境遇を聞けば聞くほど、すでに終わったこととはいえ、あまりに過酷で、どうにもならなかった当時を思い出すのも辛いだろうと思ってのことだった。
尚紀が、番の江上にさえ言えない過去。どんな言葉をかけるべきか、潤は少し迷った。
それを、呆れていると尚紀は受け取ったらしい。
「重くてごめんなさい」
尚紀はもう一度謝る。潤はとっさに精一杯首を横に振った。そんなことはないと伝えたかった。驚いた自分が今うまく反応できないのは、ひとえに経験値のなさだ。
「尚紀が、あのオメガの少年が自分に似ていると言ったのは、そういう訳なんだね」
潤がようやく言葉を探してそう呟くと、尚紀はそうですね……と応じた。
「いや、境遇というより、自分のオメガとしての性を軽く見て、一歩間違えば取り返しが付かないようなことをしてしまった軽薄さ……でしょうか」
「……尚紀」
潤は、尚紀の自身への苛烈な追い詰め方が心配になる。
「自分はそれで取り返しがつかない事態になりました。
被害者の少年は、今心に大きな傷を負っていると思うけど、僕のような道を辿る前に気づくことができたと思います」
潤さん、と尚紀が呼びかける。
「僕は運よく廉さんの番になれました。それは、颯真先生が廉さんの近くにいたから。
でも、オメガの中には望まぬアルファに項を噛まれて番契約を結ばされ、結果として人生を縛られているオメガもたくさんいます。僕も、間違いなくその中の一人だった。そんな人生を選んでしまったのは、誰のせいでもない、僕自身の浅はかな判断によるものです。自分の責任なんです」
多分、運が良くなかったら、今ここで廉さんの番として、潤さんに抱きしめられていることはなかった。
それくらい、僕の人生の底は深かった。
尚紀の一言は潤のはらわたに、深く深く、落ち込む。
「尚紀……」
潤が言葉を失った。尚紀は儚げな笑みを、無理に浮かべていた。
少し目が潤んでいるようにも見えた。潤は尚紀の瞳の強い決意を読み取る。
「ペア・ボンド療法は間違いなく必要な治療法だと僕は思います。でも、その前に、僕のようなオメガを減らさなければならないと思うんです」
潤は思わず手を伸ばし、その華奢な身体を抱きしめる。尚紀は潤の肩に顔を寄せる。
「尚紀。一体どんなことがあって、君は、夏木というアルファの番になったんだ」
潤の強い問いかけを、尚紀はふっと息をついて逃した。
「……過去の僕の浅はかな行動を、潤さんに話してしまうと、呆れられてしまうかも……」
「そんなことはない」
潤は言い切った。どんなことを聞いても、過去の尚紀を軽んじることなど、自分にはできないと、思った。
尚紀がこれまで懸命に生きてきた道のりに変わりはないのだから。
こういう時はスッキリするまで話させてしまう方がいいのか、それとも、もう言わせない方がいいのか。
先程まで、胸の内に迷いがあった。この過去を、江上さえ知らない過去を、自分が知っていいのか。
それでも、ここで立ち返る気にはなれない。尚紀が話してくれるのであれば、彼が前を見据えるために、自分は受け入れるだけだ。
潤は尚紀の耳に唇を寄せる。
「話すのは過去を思い出すようで辛い?」
尚紀は潤の肩に顔を埋めて、大きく呼吸をした。
「……お世辞にも、優等生の人生であったわけではないですから」
そんなこと、知ってるよ、と潤は慰める。
「でも、尚紀のこれまでの人生を、そんなものだけで括れないだろう?」
「僕……、潤さんの後輩と言っていましたが、実は高校を卒業できなかったんです」
尚紀の過去を辿る話は、そんなところから始まった。
「もともと成績は低空飛行ではあったんですが、中等部でオメガと分かった頃からでしょうか、少しずつ学校の勉強に追いつけなくなって……。辛うじて高等部には上がれましたが、家庭の問題もあって二年生には上がるのは厳しくて」
高校一年の終わりくらいから、学校に行かなくなりました、と尚紀は告白した。
たしかに潤や尚紀が通っていた中高一貫校は少々レベルが高い進学校で、難関大学への合格率が高い。各々が第二の性を明らかにはしていないものの、圧倒的にアルファや優秀なベータが多い印象ではあった。
授業もそれに合わせて極めてスピーディーで、潤もついていくのが大変だった。かといって、授業で遅れがちになる落ちこぼれの生徒へのフォローも十分ではなく、潤は江上や颯真に教えてもらいつつ、アルファには負けたくないという意地も手伝って定期試験を乗り切った記憶がある。
あれはキツいよね、僕も優等生ではなかったな、と潤は振り返る。
「学校に行かなかったのは、ぐれていた、というわけではないんですが、居場所がなかったんです」
尚紀の言葉に、潤は何も言わず、宥めるように背中を撫でた。
「学校だけが全てじゃない。……でも、あの頃はそれが全てなんだよね」
「……学校に行かずに何をしていたかっていうと、昼間に子供がふらついていても目立たないような場所を、彷徨っていました」
朝学校に行くふりをして、そのままふらりと、と尚紀は言った。
「ご両親は?」
潤の問いかけに、尚紀は首を横に振った。
「あまり関係が良くなくて、実家にもいられなかったんです。
両親はオメガと分かってから、僕に対してあまり関心がなくて……。
そのうち、家に帰る回数も減りました。毎日帰っていたのが、数日に一回になり、そして月の半分……。どこで寝ていたかというと、そういう場所で知り合った友達のところに転がり込んだりして。すでに軽く家出でしたね」
そんな風に尚紀は語る。
「今にして思えば、僕はオメガという性に対しての知識はゼロでした。学校のカウンセリングもあまり受けていませんでしたし」
もちろん、大きな病院にアルファ・オメガ科という専門科があるなんてことも知らなくて、発情期が来るっていうのもなんとなく……薄らぼんやりくらいしか知識がなかった。
尚紀はそう言った。
「だから、突然発情期がやってきても対処のしようがなかったんです。言い訳ですけど……」
尚紀は潤の肩に顔を埋めた。
「今思えば、発情期の前にちょっと香りがしていて、匂うからと友達の家を追い出されたんです。僕はといえばあまり危機感をもなくて。街中を彷徨っているうちに、本格的に始まってしまって、それに偶然居合わせたアルファ……夏木を誘惑してしまったようで。そのまま項を噛まれたんです。十七だったと思います」
尚紀は、その運命の一日の出来事を、一気に捲し立てた。
それはまだ、消化しきれていないと言っているようで、潤の胸を痛ませる。
しかし、尚紀は言うのだ。今思えば、すべては無防備な自分の責任です、と。
「それから夏木が亡くなるまで、僕は彼の番でした。
あの時の自分の浅はかな行動を後悔しなかったことはありません」
尚紀は唇を噛んだ。
「でも、僕はまだ幸せな方だったかもしれない。そういうめに遭ったオメガの子は、割といるという話を後々になって聞きました。行方がわからなくなった子も多いそうです」
多分、慰みものになったのだろうと思います、と尚紀が言った。最近はそういう報道はあまり目にしなくなったが、表に出なくなっただけで実際のところは減っているわけではないのだろう。
「そういう意味では、最低なアルファでも、夏木の番であったから、僕は生きられたのかもしれないとも思えるんです」
「尚紀……」
「単に運が良かっただけなんです。
だから、こういう目にあうオメガの子が少しでも減ってほしいです」
尚紀が潤の腕を掴む手が強くなった。
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