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「自分は運が良かったって、本当にそう思っているとしても、尚紀が受けた心の傷は変わらないよ」  潤がそう冷静に指摘すると、尚紀はぐしゅっと顔を歪ませた。 「……潤さん……」  その姿があまりに頼りなくて、いつもの尚紀の姿ではなくて、潤は慰めるように優しく彼の背中を撫でる。叶うなら、今この手で、彼を癒せるならば癒してやりたい。しかしそれは自分の役割ではない。  大事な大事な、実の弟のような尚紀。  潤は、大切な彼から、この不穏な情報を遠ざけたいという明確な意志があった。  なにしろ今は時期が悪い。妊娠初期にこのようなストレスにさらされるべきではないと思う。 「ねえ、尚紀。もうそのニュースを追うの、やめない?」  潤がそう提案すると、腕の中の尚紀がぴくりと動いた。  しかし、その後は沈黙を保っている。 「……僕は心配だよ。身重なのに、ほかのオメガの子の心配までして。自分の身体とお腹の赤ちゃんのことだけ考えてほしいよ」  それが潤の本音だ。  尚紀の目線が過去だけを向いているわけではないというのは、潤にもわかっていた。それは安心した。  自分のような経験をする子を減らしたいというのは、尚紀の将来への希望だ。それと同時に、彼にとって、自身への救済につながるのだろうと思う。そうやって目を背けずに過去を乗り越えようとする尚紀は、本当に強いと思う。 「でも……」  潤の提案に尚紀が躊躇いを見せた。ただぱったり止める、という決意を下すこともまた、ストレスを溜めることになるのかもしれない。  潤は説得の方向性を変えることにする。 「なら、僕が調べて尚紀に伝えるというのはどう?」 「そんなことダメです。忙しい潤さんにお願いできません!」  慌てたように尚紀が即答する。尚紀ならばそう言うだろうと思った。  それならばと潤は本命の意見を口にする。 「じゃあ、せめて廉には話してあげてよ」  廉ならば尚紀を説得できるはず。 「それも、無理です」  意外なほどに強い拒絶が返ってきた。見れば、先程以上に難しい表情を浮かべる尚紀。無意識に唇を噛んでいて、堅い決意が感じられた。 「どうして?」  そんな緊張を解したくて、潤は表情を意図的に和らげる。  なのに尚紀はそれに乗ってくれない。 「……これは僕の責任ですから。  僕が一人で乗り越えないといけないことで」  そう言って、きれいな顔の眉間にしわが寄った。 「そんなの、廉は望んでないよ」  潤は言葉を続ける。 「廉は尚紀の番でしょ。家族だよ。廉は当然一緒に乗り越えるべきものだと思っているよ?」  尚紀は首を左右に振る。 「僕は、ずっと廉さんに迷惑をかけているし……」 「迷惑?」 「だって、ペア・ボンド療法も、僕が夏木の番でなかったら受ける必要のないもので……」 「え、今更それ?」  思わず潤が一言を出してしまう。 「それに、こういうダメな僕を見せてがっかりされたくないっていうか……」  潤は首を傾げる。ダメな尚紀なんてこの世のどこにいるのだろう? 「僕ははっきりと本音を言うけど、尚紀のだめなところってどこ? 本気で全然わからないんだけど。これは過去のことだし、むしろ過酷な環境から一人で這い上がって、ここまできた尚紀の強さに僕は驚いているのに」  潤がそう言うと、尚紀は困惑した表情を浮かべて見た。 「……潤さん、怖いんです、僕。  話すのが怖い……」  もし廉さんに……、そう言って尚紀の言葉は消えた。 「だからそんなことにはならないって言っているでしょう?」  潤の力強い否定も、尚紀にはいまいち効果がない。 「でも……」 「何をそんなに不安に思うの?」  尚紀は潤の腕を掴んで、胸に顔を埋めた。 「全ては僕の危機感のない行動が原因です。あの時、僕にもう少し危機感があれば、賢ければ……。自分を守れたのに。  誰かの番として廉さんに出会わなければならなかったこと、本当に申し訳なかったと思っています」  そうかと潤は気がつく。尚紀は、江上に対して罪悪感があるのだ。  前の番の影響を身体に残しつつも、ペア・ボンド療法であっさりと番になり、さらに同時に子を成すほどに好相性の番と、最初は他のアルファの番として出会わければならなかった悔しさ。たとえ江上が見せなかったとしても、どれだけ悩んで苦しんだかを察しているに違いない尚紀は、本来であれば必要のない苦しみと試練を与えてしまったと、ずっと彼に申し訳なさを感じてきたに違いない。    何事に対しても強かさを見せる尚紀が、ここまで躊躇うとは。  潤は思う。  これは過去だ。  江上は知っておくべき過去だが、これを知っても何が揺らぐわけでもない。 「尚紀」  潤は胸の中で震える肩に、呼びかける。 「廉へは僕が話そう」  尚紀がとっさに顔をあげる。赤く充血し、涙で揺らぐ瞳。驚きと、迷いが混在している。 「そんな……」  言葉が継げない尚紀の頬に、潤の手が触れる。 「この話は、誰が知らなくても廉だけは知っておくべきだと思う。知らなかったら廉が傷つく。そんなことはさせたくないよね。だから僕から伝えるよ?」  この尚紀が乗り越えられないことを、あえて本人が、大切な人に告白する必要があるのかと考えれば、潤には答えは明白だ。この二人には過去のこと。尚紀の罪悪感も、今後江上と一緒に生きていくうちに昇華されていくものであるように思える。そう、二人で乗り越えていけばいいのだ。  だから、第三者が感情を交えずに伝えた方が良い。 「そんなこと……潤さんにお願いできません」  「でも、尚紀がちゃんと話せるのか。僕にはちょっとそうは思えない」 「……」 「大事なことは尚紀が伝えないといけない。でも、これはそこまで大事なこと? 辛い記憶だけど、もう終わった過去だ。もう尚紀がいる場所は違う。自分で傷を抉ることなんてないんだよ」  潤は、涙が溢れそうなほどに揺らいている尚紀の瞳を覗き込む。 「廉が心配しているって言ったでしょう? 番だし廉自身は知りたいと思うんだ。でも尚紀の気持ちの方を大事にしたい感じだった。  彼は多分、尚紀が自分に話してくれなくても、同じオメガの僕には話してくれるかもと思ったんだよ。話すことで、尚紀に楽になって欲しいって願ってると思う。  尚紀が、元気で楽しく笑っていることが大事なことなんだ」  尚紀が潤に抱きついてきた。何かを堪えるように、呼吸を整えている。  潤は尚紀の耳元でささやく。 「いいね?」  尚紀も頷いた。 「……はい。よろしくお願いします」 「よし」  そう請け負うと、潤は尚紀の背中をぽんぽんと慰めるように叩いた。  意識して、軽い口調にする。 「廉は隣の部屋かな。ちょっと話してきちゃおう」  そして、潤は尚紀を引き離した。 「尚紀は、廉のためにコーヒーを淹れなおしてあげてくれる? 僕の分はいいよ、もう話したらすぐにお暇するから」  安心させるように、尚紀の頬に触れて笑った。 「あと、今夜は廉にたっぷり愛される覚悟をしておいた方がいいよ」  尚紀が少し驚いたように目を丸くして、恥ずかしがるように目を伏せる。それを潤は楽しい気分で眺めた。あの親友が傷ついた番をそのまま放置するなんてあり得ないのだから、この予告は間違っていないだろう。

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