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潤が江上家から辞去し、自宅マンションに戻ると、すでに颯真は帰宅しており、リビングでくつろいでいた。
「おかえり、潤。尚紀の手料理はどうだった?」
考えてみれば颯真には何も言っていないはずなのに、当たり前すぎるほどに事情を把握していた。当然、江上から連絡がいっていたのだろう。
「尚紀の手料理は美味しかったよ。中華料理を作ってくれたの。それよりさ!」
潤は唐突に思い出した。颯真は今日潤が知り得てきた事実をすべて知っている立場だ。というのも、妊娠の診断を下したのがこの双子の片割れなのだから。
潤がソファの前に膝をついて颯真に近づく。もちろん守秘義務があるし、尚紀から言ってもらえて嬉しいに違いないのに、あんな慶事を、何の反応もなく数日間やり過ごされた悔しさも少しある。
「ちょっと待て、まず風呂に入ってこい。その後ちゃんと話を聞いてやるから」
「颯真?」
潤が颯真を見ると、彼は憮然とした表情を浮かべている。
「お前から廉の匂いがする。気に入らん」
江上と二人きりで話したのはほんの数分のことだが、颯真がその香りを素早く察知したことが潤には驚きだった。
颯真がのぞかせるアルファとしての嗅覚と独占欲に、なんとも言えない悦びを感じつつ、言われた通りにシャワーを浴びて身体を洗い、颯真が溜めてくれていた浴槽に身を落ち着ける。
心地よい疲労感。
温かい湯の中で脚と腕を伸ばすと、自然と力が抜けて身体がとろんとした。
あのあと。
説得した尚紀をダイニングに残して、潤は江上があえて席を外し籠っていた、彼の居室に移動した。そこで、先程の尚紀との話を聞かせた。
尚紀が事件のことを気にする理由とずっと抱えてきた過去。そして江上への罪悪感。
もしかしたら、江上もどこかで想像をしていたのかもしれない。尚紀が前の番になった経緯を説明した時、江上は目を伏せ、痛ましそうな表情を浮かべた。潤は心情を交えずに淡々と話したつもりだった。ただ、その痛々しい経験が、今の番への罪悪感に繋がっていて、未だに消えない傷になっているみたいだと、見解を述べると、江上はどこか納得したような表情を浮かべた。やはり思い当たるところはあったのかもしれない。
「潤、ありがとう。尚紀が言えないことを、お前が俺に話してくれたんだな」
江上が潤の手をとる。やはり彼は鋭く察していて、話は早かった。潤の望んでいた反応が即座に得られた。
江上が感謝を示すように、潤をハグする。それを潤も受け入れた。
江上にこんなに密着するのは本当に久しぶりだった。
「大丈夫、お前が言うように、何が変わるわけじゃないし、……というか、ますます尚紀を幸せにしないといけないと思う」
眼鏡の奥の瞳が力強い。江上の決意を潤も頷くことで理解を見せた。
となると、自分の存在はすでに不要で、さっさとお暇するに限る。その前に一つ、潤には確認しておきたいことがあった。
「あと、尚紀のご両親のことなんだけど……」
先程の尚紀の話で、彼はオメガと判明してから両親との関係が急速に冷えたようなことを明かしていた。たしかに、彼から両親や家族の話を聞いたことがなく、疎遠なのだろうと想像はしていた。
潤や江上が通っていた中高一貫校はわりと学費もかかる私立校なので、そこに中等部から通えていたことを考えると、尚紀の実家もそれなりに裕福なのだろうと想像はつく。しかし、それが精神的に満たされた家庭であったのかというと話は別だし、子供の第二の性が期待と違っていたと、性別判定で両親に失望されるケースもあるのが、オメガという性でもあった。
幸い、森生家はアルファだけでなくオメガも多い家系で、母親の茗子もオメガであることから、周囲からアルファと期待されていた潤が実はオメガだったと判明しても、冷静をもって受け入れられたが。
「尚紀の実家は少し複雑で。番になったことは報告したけど、大した反応もなくて。妊娠したことも報告しようと思うけど、正直、今後あまり関わらせたくはないと思っている」
江上によると、尚紀の両親はともにアルファで弁護士なのだという。兄も弁護士という法曹一家らしい。
そのなかで、一人オメガであった尚紀の居場所がなかったというのは、容易に想像できた。
今が幸せなのだから、傷を抉ることはないというのは実家に対しても言えることなのかもしれない。
「それでも尚紀のご両親だし、血が繋がった家族の対応は難しいね。孫が産まれれば変わるなんて話も聞くけど、それもどうかな。
今のところは保留なんだね」
潤の言葉に江上もそうだなと頷いたのだった。
浴室でさっぱりして潤が出てくると、颯真が一杯だけな、と赤ワインとつまみを用意してくれていた。
颯真は、自分の分はグラスにそのまま注ぎ、潤には、身体が冷えないようにと赤ワインに砂糖とレモンとシナモンスティック、クローブを入れて温めた即席のホットワインを作ってくれる。こうやって颯真が作ってくれるホットワインは、即席とは思えないほどに美味しい。
マグカップとグラスをかち合わせ、乾杯した。
「ペア・ボンド療法ってすごいなって改めて思った」
乾杯して潤は切り出した。
颯真は素早く察知したらしい。
「ああ、尚紀の妊娠な。あれは俺を含めて関係者がみんな驚いた。あれだけの効果が得られたのは、もう廉との相性のおかげだろうな」
颯真の言葉で、ペア・ボンド療法の成功と妊娠の同時の成果は、想定以上のものであったと察した。それにしても、江上と尚紀の相性の良さは「運命の番」と呼ばれるものに近いのではないだろうか、などと思ったりもする。
「いきなり江上家の夕食に招待したいなんて言われてさ。何かと思ったよ」
颯真がふっと笑う。
「僕が報告するまで颯真先生は潤さんに言わないでくださいね! って、速攻で口止めされたんだよ」
あいつ、お前のこと好きすぎだろう、と颯真は言い、潤はそれだけ尚紀に思われていることが嬉しくなった。
「もう弟みたいなものだからね。僕、伯父さんになる気分になったもん」
「お前が伯父さんじゃ、俺もそうなるな」
颯真の反応に、潤もふふっと笑って頷いた。
「尚紀は颯真の病院で出産することになるの?」
「そうだな。ペア・ボンド療法の被験者だし、尚紀自身のデータも揃っているから、特段の希望がなければ、うちで出産するのが安心だろうな」
なるほどそうなだと潤も思う。オメガの出産は、もともとオメガの人口が少ない故に、アルファ・オメガ科でもさほど多いわけではないと聞く。
そのため分娩を取り扱っている医療機関は多くはない反面、一人一人にはきめ細かいケアが提供できるらしい。
「でも、ほんとに番って不思議だね。最初に尚紀の妊娠に気がついたのは廉だって聞いたよ」
食卓を囲んでいる時に、潤が尚紀から聞いた話だった。江上が香りが違うから早く病院に行ってこいと、尚紀をせっついたとのこと。江上に言わせると、番の香りの変化はとても分かりやすいらしい。だから、発情期でもないのに、急に尚紀の香りにこれまでにない甘さを感じるようになって、すぐに妊娠の可能性に思い至ったという。
「そうだな、番が妊娠すると、アルファが感じる香りに変化が現れる。個人差があるけど、少し甘い感じになるそうだ。自分の子供を身籠っているから、普段以上に守るべき対象として認識するために、アルファが好む香りに近づくらしいぞ。
面白いよな。そういう患者さんが本当に多いんだ。
あと、それと同じように、オメガは出産時にアルファの香りがあるとお産がスムーズに進んで安産になる傾向がある」
「へえ、面白い! 番の香りって大事なんだね」
潤には初めて聞くような話ばかりで興味深い。
いや、番となっていなくても、アルファの嗅覚は侮れないのかもしれない。まだ颯真とは番っていないが、先程一瞬だけハグをした江上の香りを言い当てたのだから。
そう考えて、潤もふと思う。
番となった自分がもし妊娠したら。颯真も即座に分かるのかもしれない。
そう考えて、潤は急激に顔の体温が上昇するのを自覚した。
「どうした?」
一人で赤面した潤の顔を、颯真が楽しそうにのぞいてくる。
潤は思わず、両手で顔を覆う。
「いや……あの。もし、僕が颯真との子を身籠ったら、颯真はすぐに僕の変化を分かるのかなって……」
颯真は少し考える仕草を見せたものの、あっさりと頷く。
「そういうことか。すぐに分かると思うな。お前の体調は把握してるし、それに、やっぱり香りの変化でピンとくると思う」
「……なんか、自分よりも番に早く気づかれるって、ちょっと恥ずかしい」
それは尚紀も言っていた。香りの変化はオメガ本人にはよく分からないらしい。
すると、そんな表情の変化を目の前で楽しそうに見ていた颯真が、気軽な口調で提案してきた。
「……俺たちも作るか、子供」
思わず潤は、颯真を見る。
少し考え、そして深く頷いた。
「そうだね。
僕も颯真との子が欲しいな」
颯真は少し驚いたように目を見開いた。
「潤が素直にうんと言ってくれるのはうれしいけど、意外だな」
確かに、江上と尚紀に影響されているところはあるのだろう。ただ、潤の中で確実にオメガとして、番と定めたアルファとの間に子供をもうけたいという、本能的な欲求が生まれ始めているのも、確かだった。
「そうかも。これまではそんなことを急に言われても、とか、仕事が……とか、いろいろ理由をつけて躊躇ったかも。
でもさ、僕も颯真とは兄弟とは違う形の家族になりたいんだ」
颯真が潤の手を取って、その甲にキスを落とす。それがあまりに誠意に満ちたもののように感じて、思わず見惚れた。
「潤、嬉しい」
ストレートな感情表現に、潤は照れて視線を伏せる。
「あのね、颯真。週末に実家に帰って母さんと話してくる」
週末なら時間があるって言ってくれたから、と潤が決意を述べた。
「すぐに理解してくれるとは思っていないけど、僕も努力しないと。
母さんとなら、少し冷静になって話せると思うんだ。父さんはちょうど出張でいないらしいから」
「俺も行こうか?」
短い問いかけに、気遣いと優しさを感じる。
「ありがとう。でも大丈夫。
最初は、母さんと二人で話したいんだ」
潤のそんな決意を、颯真は受け止めた。
「わかった」
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