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オメガは世間から番の理想の形を押し付けられる。そこから逸脱してしまった時はどうなるか。染み付いてしまった、自分を卑しめるような意識では、オメガの人たち自身が気持ちを変えていくことは難しい。きっとその少年も、いつの日にかこの悲しい過去を振り返ることができるようになったとしても、大切な番ができたとしても、自分を責めながら生きていくのかもしれない。
それこそ尚紀のように。
「ねえ、颯真。特別室に入院してしている、その子の力になってあげてね」
彼が自分の力で立てるようになるまで。そして、立てるようになってからも。身体の傷は治っても、心の傷は容易には癒えないのだから。
潤の願いに颯真も頷く。
「もちろんだ。一介の医者に何ができるか分からないけどな」
それは颯真にしては弱気な発言だった。それほどまでに、その少年の苦しみや深い悲しみを目の当たりにしているためかもしれない。
潤は、颯真の手を取り両手で包み込んだ。温かい颯真の手。自分にとっては、愛おしい番の手。そして多くのオメガの患者にとっては、人を癒す尊い手だ。
「颯真らしくないよ、大丈夫」
潤は颯真を見据えて、力強く頷いた。
「……颯真先生は本当にいい先生です。自分でもうんざりするほど不安定なのに、きちんと向き合ってくれます。投げ出さないで診てくれて、ちゃんと楽にしてくれる。颯真先生が来てくれたら大丈夫って思える。僕は颯真先生の温かい手が好きです」
「潤?」
潤は颯真の手に口づけを施す。
「尚紀が以前、僕にそう言ったんだ。尚紀の颯真への信頼感は絶大なんだよ。多分、自分が辛いときに支えてもらって……そういった安心と信頼の蓄積なんだと思う。
だから大丈夫。きっと、その子にも必要なのは、こういう温かい手を持つ人なんだ。颯真のようなアルファがその子を支えてくれれば、きっとこの先、その子は一人で立った時にも、怯えた気持ちでアルファを見なくて済むかもしれない」
自分を傷つけるだけがアルファではないと、そう思えたのならば。
「その子に見せることが大事なんだと思うよ」
潤の説得に、颯真も頷く。
「そうだな……」
颯真の手の温かみを感じつつ、潤はやはり自分の環境を思わずにはいられない。
自分はオメガの中でも恵まれているのだ。両親はアルファとオメガで、アルファと思われていたのにオメガだった自分も、アルファの兄と分け隔てなく育ててくれた。今では家業の会社の一つを任せてくれている。
潤の周りに、オメガの社長がどれだけいるかといえば、メルト製薬の長谷川社長と母親の茗子くらいなもの。他業種まで見渡せばいるのだろうが、オメガが企業を経営することは稀であり、この年齢で会社を任せて貰えているのは奇跡的なことなのだろう。
「その子が受けた肉体的精神的な傷は相当なもので、地獄の苦しみなんだと思う。僕なんかには想像もつかない。
立ち直るには傷を癒さないといけないし、エネルギーも要る。なのに容易に元の環境に戻ることも許されない。特にオメガは一度道から外れると、戻るのも大変なんだよね」
オメガには、他の性と比べてドロップアウトしかねない落とし穴が多いと潤は思う。さらに、そんな穴に一度でも嵌ってしまうと、やり直しの機会は与えられにくくなる。
全国的にもオメガの高校進学率は他の性に比べて低く、また高校中退の割合も高いと聞いたことがある。高校卒業という進路が全て正しいわけではないが、高校卒業資格は、将来の選択肢を広めることには違いない。
例えば、高校でドロップアウトする例がこのようなものだ。オメガと判定された生徒が校内で初めての発情期を、友人たちの前で起こしてしまう。それが発端となり、いじめに繋がり、学校に行けなくなり高校を退学する、といったもの。オメガにとってみれば一瞬気を抜けば嵌りかねない落とし穴である。また、尚紀のように学校の勉強について行けなくなりドロップアウトという事例も多い。
たとえ、被害者の少年の傷が癒えて、高校をやり直したい、高校を卒業したいと思っても、そのバッグアップ体制が整っていないがゆえに、それは容易ではない。就職するにしても、学歴やそもそも第二の性がネックになり、まともな職場にたどり着くにも困難だろう。
潤の呟きに颯真は頷いた。
「それは同意だ。やり直すにもアルファやベータよりパワーが要るって思っている」
颯真は毎日多くのオメガの患者と接している。そこから導き出される実感は現実に近いのではないか。
「発情期もあるでしょってなると、正社員の仕事を見つけること自体が大変だからね」
三ヶ月に一度の頻度で一週間も休む社員を、他の同僚たちはどう見るか。
「偏見も多いしな。第二の性って明かすものではないと言うけれど、それってある意味、言ったら差別を受ける可能性があるから言えないっていう側面もあるよな」
潤も頷く。
森生メディカルではオメガを多く採用しているが、ここ数年は第二の性は最終面接まで聞かないことにしている。それを知ると、どうしても先入観が入ってしまうためだ。しかし、このような採用プロセスを採用している企業はほとんどないと聞く。
潤だって、これまできっちりフェロモンを管理し、発情期を抑えてきたのは、ベストパフォーマンスを出すためにアルファやベータに負けられないという気持ちのほかに、発情期という弱みを周囲に見せられない意識があったのだと思う。
「性差は偏見が少ない時期にフラットな情報を教えたほうがいい。最近は小学校で第二の性を教えているから、これから少しずつ変わっていくんだろうけど……」
そもそも、十五歳にならないと第二の性を確定できないのがおかしいんじゃない? と潤が問題提起する。
性別判別のための血液検査は義務教育最終年の春と定められているのは、その時期まで達さないと、性別を判明できるほどのフェロモン量がはっきり出ないためだ。それ以前に行ったとしても、最終的に違う性別と判定されたりするケースも出てくる。
颯真は難しそうな表情を崩さない。
「検査の精度を維持するには、あの年齢がギリギリなんだ。
でも、早い子だとそれからすぐに発情期が来たりして、気持ちの整理も難しい。もっと工夫はできるだろうとは思ってるんだ」
颯真はだからこそ性差教育をもっと早いうちから始めたほうがいいと主張しているのだ。
そういえば、オルムの前身であった「フローラ」の活動内容にそのようなものがあったなと、潤は不意に思い出した。社会的にも有益な活動をしていた団体だったのだ。
「アルファは、性的な目覚めが早い印象があるな。颯真も早かったよね?」
颯真は少し考えるように、唸る。
「そうだなあ。俺も早かったかも。もともとアルファだろうなとは思ってたし」
潤も、確かに、と頷く。
親戚から、本家の長男がアルファで良かったという安堵の声を、潤は小学生の時に何度も聞いていた。
「颯真は、誰が見てもアルファというくらい典型的だったもんね」
潤は興味が湧いて、気軽に問いかけた。
「ねえ、僕を番だと確信したのはいつ頃なの?」
潤の何気ない質問に、颯真の表情が曇る。
「お前……。まだそれを気にしてるのか」
「ちがうから」
颯真の懸念を潤は素早く察し、慌てて否定した。
それは颯真に先日言われたことが蘇ったからだ。颯真がこれまで抱えてきた苦しみを共有したいと潤が申し出ると、彼からは、想いが通じることが難しいと考えていたから、全て報われたと思っている。これまでのことを負い目に感じることはない、と。
今はそんな意識はない。
「本当に興味で聞いてるんだ」
潤は言葉にするのを僅かばかり躊躇う。
「……好きな人のことを知りたいって思うのは、自然なことだよね?」
そう言うと、颯真は驚いたような反応を見せ、嬉しそうに笑みを浮かべて頷いた。そして、天井を仰ぎ、少し考える。
「そうだな。前に言ったかもしれないけど、自覚したのは十一歳くらいだったかな……。
うん、十一だった」
「何かきっかけがあったの?」
「精通したから、かな?」
颯真の返答に、潤は激しく驚いた。
「え、本当? そんなに早かったの?」
潤は思わず自分の精通時期を思い返していた。たしか、高校に入学してからだった気がするからだ。確かに颯真の方が、潤よりも先に急激に大人びていったような気がする。片割れとは、第二の性以外は全て一緒だと思っていたのに、実際は颯真の方が大人の階段を駆け上がって行ったのだ。
「本当に早いんだね……。僕なんて高校に入ってからだったと思うのに……」
ちょっとショックだよ……と、潤は俯く。一方、颯真は早い遅いが問題じゃないだろうとフォローを入れてくる。それは、正論なのだが。
なぜだか悔しくて、潤は呟いた。
「なんか負けた気分だよ……」
「男兄弟なのに、そういうことを話したことはなかったよな」
だからこのような事実を今更知るのだ。
昔は一緒に風呂にも入ったのに、小学生から中学生になった頃からどういうわけか一緒に入ることがなくなった。少し寂しい思いをしたのを潤は覚えている。しかし、それは颯真が潤への想いを自覚したからなのだろう。
さらに、中学生から高校生になった頃にかけて、同じベッドで寝ることもなくなった。颯真が勉強が忙しく、寝る時間に違いが出てきたためだが、おそらく颯真が意図的にそうしていたのだろう。
「俺も、自覚したときには結構な衝撃だったぞ」
真っ直ぐ見つめる潤の目を避けるように、颯真が視線をグラスに落とした。それは少し話すのを躊躇っているようで。
「だって、小学生でしょう? 僕なんてそういう気持ちさえ生まれていなかったと思う」
潤は早熟な颯真の気持ちを慮る。もしかしたら、初恋であったのかもしれないとさえ思ってしまう。
「突然降ってきたんだ。夜、ベッドの中で。
気がついたんだよ。俺が潤の香りが好きなのは、潤を見てムラムラするのは、潤が俺の香りを好むのは……、そうか、そういうわけなんだ、と」
あの時は、かなり自分でも混乱したな、と颯真は振り返る。
「もうその夜は眠れなくて、一睡もできなかったと思う。でも、朝になると、お前が起こしに来るんだよ。颯真、朝だよ起きて! 日曜日だよ! って」
昔から颯真の方が潤よりも寝起きがよかった。しかし、たまに潤がすっきり目覚めると、颯真の部屋に突撃していたのだ。
「正直ショックすぎて、その日をどうお前と過ごしたのか覚えていない」
颯真は苦笑した。桁外れの頭脳と能力を持つアルファだから、そんな印象的な一日の記憶が丸々抜けていることなど、そうそうないに違いない。
颯真にとっても、考えるまでもなく衝撃だったのだろう。
小学生の頃は、休日になると潤と颯真で祖父母宅に遊びにいっていた。両親は土日も仕事であることが多く、預けられていたのだ。やはり広い自宅に二人で留守番をさせることは心配だったのだろう。祖父母と出かけることもあったし、二人で祖父母宅の周りで遊ぶことも多かった。
「受け入れ難かった?」
潤の言葉に颯真は素直に頷く。
「ああ。世界がいきなり大きく変わった気がした。訳がわからなかったよ。なんで俺は隣にいる弟を、番だなんて思ってるんだ? って」
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