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 その週の土曜日。  潤は、早朝出勤する颯真を送り出してから、実家に帰ることにしていた。電車で帰ると颯真に伝えると、猛烈に苦い顔をされ、タクシーにしろと説得された。  ここから実家の最寄り駅までは電車で一本で終点にも関わらず、少し過保護ではないかと思ったりもしたが、以前颯真の忠告を無視して電車に乗って誘拐されかけたこともあるため、その懸念を笑って否定することもできない。  結局、急行電車は混むので、時間は少しかかるが混雑していない各駅停車で、周囲に気を配って帰ることなどを条件になんとか説き伏せることができた。  颯真の心配は分かるが、三十路に足を突っ込む男が、怖くて電車に乗れないというのは情けなくて、嫌なのだ。  土曜の昼間の各駅停車は、座席に余裕があるほどに空いていて、時折急行電車が待ち合わせては追い越していく。のんびりとした時間が流れる。普段はこんなふうに時間に身を委ねることはあまりないので、それが新鮮で、潤はリラックスした気分で風景を眺めて、車内を見ていたら、終点まではすぐだった。  地下のホームから上がり、地元の街並みを見て、それでも思わず安堵の息が漏れる。全く電車に乗ってないわけではないのだが、颯真の心配されて少し緊張していたのかもしれない。  外の空気を吸いたくて、潤はあえて近道を使わずにのんびりと、実家のある高台に向かって坂を上っていく。  冬の晴れた空は、青空の色が少し淡い。潤は曲がりくねった少々きつい坂の途中で空を仰いだ。  振り返ってみると、これまで上ってきた道の先にビル。さすがにみなとみらいの街並みまでは見えないが、それでも見晴らしは良い。この先には海が見える大きな公園があり、そこからの眺望は抜群なのだ。  大きな坂を上りきり、潤はそのまま実家に向かう。ここから歩いて五分もかからない。ここにきて、さりげなく実家への道のりを遠回りしている理由に潤はようやく思い当たった。なんのことはない、緊張しているのだ。  茗子に何を話すのか。潤は考えていたが、素直に気持ちを話せばいいと思っていた。そもそもあの母親に嘘偽りが通じるわけはないし、それが露見すれば全てに疑念を持たれかねない。誠実に、聞かれたことは素直に話したいと思っていた。  途中で、天野医院の前を通りかかる。土曜日の診療は確か昼までだったから、まだ診療時間内だろう。  その変わらぬ姿の医院の玄関を、なんとなく眺める。  潤にとって、ここを訪れる時は憂鬱以外の何ものでもなかった。天野の診察は避けられぬこととはいえ、早く終わらせて、なるべく早く忘れてしまいたかった。  しかし、今から思えば、幼少時からアルファ・オメガ専門医が身近にいたという環境は、恵まれていた。父母はもちろん、颯真も、天野のことを信頼している。おそらく、自分だけが、天野のことを少し偏見の目で見て、勝手に苦手としていたのだろう。  そういえば、と大晦日のことが脳裏を過ぎる。  松也が言っていたのだ。年末に放映された潤が出ていた密着番組を、熱心に見ていたと。「森生家の人はみんな忙しいから、父は気遣っている」と。その時も、彼の職業意識の高さをしみじみと思ったものだった。  天野医師はそう、きっと真面目で誠実な人なのだ。  先日の夜、颯真と話したことが脳裏に蘇る。   実の弟が番と気がついてしまった颯真が、すがるような気分で天野に悩みを相談したところ、彼から「初恋だね」と言われ、救われたという話の続きだ。  その後、潤がオメガであることが判明し、初めての発情期を迎えた時のこと。当時医大生だった颯真は、ヒート抑制剤を服用していたにもかかわらず潤のフェロモンに抗えず、抱く一歩手前のところまでいき、茗子に止められた。  颯真が潤のフェロモンに影響され、実弟を抱こうとしていたというのは、母茗子によって天野に伝えられ、事態を重くみた天野が、潤を誠心医科大学横浜病院のアルファ・オメガ科の特別室に入院してさせることを勧めたらしい。  潤が特別室で一人喘いでいた頃、颯真は、かつて初恋の相談をした天野に、真偽を問われたらしい。 「なんか……言われた?」  潤は恐る恐る颯真にそのように訊ねる。もしかして、和真のような厳しい言葉を、天野からも浴びせかけられたのだろうかと心配になった。  すると颯真は、ふっと表情を緩めた。 「言われたっていうか……謝られた」 「え、何に対して?」 「もっとあの時、きちんと颯真くんの話に耳を傾けておくべきだった、って。一人で随分苦しんだんだろうねって」  その優しい言葉に、潤は驚いた。 「俺からみれば、あの時、天野先生に初恋だねって言われて、めちゃくちゃ救われたんだけどな」  颯真によると、天野は真剣に颯真の話を聞いてくれたという。本能で求め合ったことも、兄弟であるからと否定も軽視せずに、向き合ってくれたという。 「アルファとオメガの本能の衝動を軽視する専門医はいない。ただ、天野先生はお前のことを心配していたよ」 「僕のこと?」  あの頃のことを思い起こしても、天野から特別に何かを気遣われた記憶は潤にはなかった。 「そう。だって、お前がオメガという性を受け止めきれていないことは、当然天野先生も分かってて。だから、その状況で発情期になって、本能で自分のアルファを求めるということも知ってしまって、受け止めきれるはずもないって」  潤は結局、颯真を求めたことをすっかり記憶の蓋で閉じてしまった。天野はそれも一種の自衛手段であるかもしれないと、颯真に対して話していたという。 「兄弟で番という事実、求め合ったという事実は、いつか記憶が戻った時にショックを受けるだろう。颯真くんは潤くんに寄り添ってあげて、と」  そう言われて颯真はどう思ったか。 「やっぱり天野先生も潤に寄り添え、と言うんだなとは思った。でも、父さんのような圧力は感じなかったし、番のことを一番に考えるのは当然だ。  ずっと俺を心配して支えてくれた先生にそう言われたんだから、すっと胸に落ちてきて納得できた。颯真くんが潤くんを支えてあげてるんだよ、って言われてな」  潤はどこかで納得した。和真のあの威圧的な言葉に屈せず、ひたすら潤を守り支えてこれたのは、颯真を支える天野の存在があったからに違いない。    颯真に天野という存在がいてよかったと潤は心から思った。 「ただいま」  潤が玄関ポーチを開けると、しばらく返事もなかったが、居間の奥のサンルームから茗子の驚いた声が聞こえた。  平日は昔からの馴染みの家政婦が来るが、土日は休みだ。 「あら! おかえり。早いわね!」  サンルームに顔を出すと、茗子がリラックスした様子でお茶を飲んでいた。  ここは茗子のお気に入りの場所だ。休みの日などは和真とここでよくいちゃついているが、それは茗子が好きな場所であるためだ。  白と黒の格子模様の床の上に、ゆったりできるラタンソファと揃いのテーブルが置かれている。  夏の昼間は直射日光が流石に厳しいものの、朝夕は窓を開けると風が通って気持ちが良い。冬のこの時期は、暖かい光が差し込む昼間は至福の場所だ。    今日は日差しが暖かいこともあって、茗子はここにお茶を持ち込んでくつろいでいた。一週間、目まぐるしく時間に追われ、絶えず責任の伴う決断を迫られてる身だ。このような時間が、大切なリカバリータイムなのだろうと想像がつく。 「ごめん、邪魔して。早かった?」  潤がそう謝ると、茗子がふふっと笑みを浮かべる。 「そんなはずないでしょ。こっちで一緒にお茶飲む?」  茗子の言葉にに潤は笑みを浮かべて頷いた。  潤も居間でコートを脱ぎ、暖かいサンルームのソファに腰掛ける。一人がけのラタンチェアに膝を丸めて座る茗子の隣にある二人用のソファだ。脇のスペースには常緑樹があり、この冬の時期でも青々とした葉が、瑞々しくきらめている。  茗子が最近、中国茶にハマっているというのはなんとなく聞いていたが、テーブルの上には、いつの間にと思うほどに茶器が揃えられていた。その熱心度合いが見て取れる。  経営者はマインドフルネスの一環で、気持ちのオン・オフができる趣味を持つ傾向があると、潤は思っている。特に、弓道や茶道といった「道」と名のつく趣味を選ぶ人が多い。  潤自身はまだオン・オフをうまくスイッチできる余裕もないため、そのような趣味は持ち合わせていないのだが、茗子や和真を見ているとその時間はとても大切なものであるというのが分かる。  目の前のテーブルには茶盆が置かれ、その上に急須の役割を果たす茶壺といくつもの小さな杯が置かれていた。確か、中国茶は味と色と、香りも楽しむものであったような気がする。 「僕、作法が全然わからないや」  そう素直に白状すると、茗子が笑う。 「そんなのいらないわよ」  そういって、キッチンからいつも使う潤のマグカップを持ってくると、茶壺に湯を入れ、いくらか蒸らすと茶海と呼ばれる大きめのピッチャーのような器に注ぎ入れ、それをマグカップに移してくれた。 「どうぞ」  そう言われていつものマグカップを手にする。  少し黄色めの薄い色合いのお茶だ。  味が薄いのかなと思って口につけると、思った以上に華やかで上品な味わい。 「美味しい。そんなに薄くないっていうか……意外なくらい濃い」  そんな感想を漏らすと、茗子は「白茶だからね」と言った。色合いは薄くとも、華やかで後味が甘いらしい。  お茶を丁寧に入れると、こんなにも味わい深いものなのかと驚く。 「紅茶好きのあなたの口に合ってよかったわ」 「なんだか、ほっとするね」  そう言って、潤は茗子とふふっと笑い合った。 「ねえ、潤」 「ん?」 「言いたくなかったら聞かないけど。  なんで、颯真とああいうことになったの?」  それは突然の問いかけだった。  いや、潤とてそれを話すために今日はここにやってきたのだ。しかし、到着して五分で問われる質問だとは思わなかった。 「あ、うん……」  最初に何をいうべきか。  ちゃんと考えてきたはずなのに、潤は言葉が出てこない。  そんな雰囲気を茗子は拒絶と取った様子。 「話したくない?」  優しく問いかけられるが、潤は首を横に振って即答する。 「ううん。違う。  その話をするために今日きたんだ。でも……」 「でも?」 「どこから話していいのか、わからなくて」  潤がそう素直に吐露すると、茗子がふふっと笑った。 「なら、ゆっくり話そっか」  茗子の目に怒りや憤りがないことに、とりあえず潤は安堵した。  すると、茗子から意外な提案が出てきた。 「外にお昼ご飯を食べに行かない? 付き合って欲しいところがあるのよ」

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