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 茗子は気軽なニットとスカート姿に身支度を調え、そのまま自宅の駐車スペースに停めている車に乗り込む。アクティブな上に運転することが好きなので、基本的に一人でどこにでも行く人だ。え、車で行くようなところ? と潤は驚く。助手席に乗り込むように茗子に促されて、車のエンジンがかかった。 「ちょっと遠出するわよ」  そう言って、茗子は愛車を発進させた。  自宅を出て、大通りまで出ると、そのまま首都高に乗り込み、湾岸沿いをぐるりとまわり南下。潤は行き先も告げられずに戸惑う。  しかし、しばらくすると、鎌倉方面の標識が見えてきた。 「鎌倉?」  潤が助手席で驚くと、茗子は潤をちらりと見て笑みを浮かべた。 「ええ。奥鎌倉」  そう言われて、ようやく茗子の行き先が潤にも読めたのだった。  茗子が目指すのは、鎌倉の市街地よりも北東部の、観光客も少ない奥鎌倉と呼ばれる地域。ここに彼女の古い友人が経営するレストランがあった。なかなか予約が取れない人気店と聞くが、茗子は気軽に使えるらしい。  茗子の運転する車で四十分ほど走り、到着したのは、奥鎌倉の山間に静かに建っている隠れ家のような一軒家レストランだった。潤も過去に何度か訪れたことはあるが、かれこれ十年以上昔の話だ。  大正時代の古い建物を移築した、純和風建築の重厚な店構えなのだが、提供されるのはフレンチだった気がする。実家はもちろん祖父母宅にも畳の部屋がなかったため、子供の頃はこの店の畳敷きに興味津々だった。 「瑤子さんはいるの?」  瑤子とは、このレストランを経営する茗子の友人の名前だ。潤の問いかけに、茗子はけろりとして、さあ? と首を傾げる。 「いいかげんだなー」  潤は苦笑した。  店内に入ると、茗子は予約を入れていたらしく、タキシードスーツのメートル・ドテルが森生様、いらっしゃいませと出迎えてくれた。 「オーナーから伺っております」  そう言うと、奥の個室に案内される。店内は昼時ということもあって、それなりに混んでいた。 「今日はオーナーは?」 「あいにく別の店舗に行っておりまして。いらっしゃるうちに戻りたいと申してはおりましたが……」  相変わらず忙しいのね、と茗子が残念がると、申し訳ありませんとメートル・ドテルが謝った。  通されたのは、畳敷きに黒壇のシンプルなテーブルと椅子がセッティングされたシックな雰囲気の和風の個室だった。  茗子はメニューも見ずに二人前のランチをオーダーする。前菜、サラダ、そしてこの店自慢のビーフシチューが味わえるコースだ。   「瑤子さんとは会ってるの?」  茗子と遥子は、高校時代からの仲だと聞いている。遥子はこのあたりに幾つかのレストランやオーベルジュを経営している実業家だ。幼い頃、潤は茗子や颯真と共に「瑤子ちゃんのお店」に何度も来たことがあった。 「それが、あまり会えないのよね。お互い忙しくて」  今や森生グループを束ねる立場の茗子と、実業家の瑤子ではそのようなことになってしまうだろう。 「今日会えたら良かったのにね」  そう残念がる潤に茗子は笑う。 「いいのよ。また連絡すればいいし、いつでも会えるのだから。でも、親子水入らずでランチのチャンスはなかなかないわ」 「なかなか会えなくても、長く友人でいられるのはいいよね」  潤の言葉に、茗子は頷いた。 「そうねー。くされ縁だけど、自分のいろいろな部分を理解して許容してくれる友達だから。大事にしたいよね」  ま、あなたたちと廉くんみたいなものだわ、と茗子は頷いた。母親と友人について語るとは思わず、少しこそばゆい気分になった。  前菜とサラダがサーブされる。ガラスに盛られた色合いが美しい前菜と、地元の様々な野菜が使われた、彩り豊かな新鮮なサラダだ。 「今日はその……、いろいろと話そうと思ったんだけどさ……」  フォークを手にしてから、潤は恐る恐る切り出す。 「母さんたちは、僕らのことをどれくらい把握しているの? 颯真から少しくらいは聞いた?」  潤の問いかけに、茗子は首を横に振った。 「颯真からはほとんど聞いてないわ。この間、潤と颯真にそう言われて、ああやっぱり……って思いつつも、いつの間にっていう感じもして、驚いたわ」  茗子はあの夜、かなり複雑な気持ちに見舞われたらしいと潤は悟った。 「やっぱり……って、颯真が昔、僕のことを番だと言ったから……?」 「そうね、それもあるけど、正直、とっさに思い当たったのは年末の発情期かしら。……正直、少し心配だったのよね」  それは、潤が取締役会の朝にフェロモン促進剤を打たれて突入した、あの苦しかった年末の七日間のことだ。極限まで追い込まれた潤と颯真は、最終的に身体を重ねることで、発情期を抜ける選択をした。  茗子は潤が発情期に入った初日の夕方に様子を見に来てくれて、そのときに颯真が全てを背負うことはないと、実家に戻ることを提案してくれてた。  茗子は少し過剰ではないかと思うくらい心配していたが、帰宅を拒絶したのは潤自身だった。 「颯真は何も言わないの。アルファだからか、自分で解決して、親の前で顔にも出さないのよ。きっと全部自分で抑えてしまうのよね」  茗子が、視線を伏せる。父和真は、颯真に対して厳しいところがある。しかし、茗子から見ると、それは少し心配に映るようだ。  でも、その気持ちも理解できる。  潤は想像する。きっと颯真は、最初の発情期の時に両親から厳しい現実を言い渡され、理解をしてもらうことを諦めてしまっていたのかもしれない。だから、ずっと気持ちを自分の中だけに温めていたのだろう。  となると、颯真がたびたび相談していたという天野も、茗子に何かを話したということはないのだろう。  颯真が話してないということは、潤がきちんと話して理解してもらわなければならないということだ。潤の腹は決まった。  なるべく感情的にならず、淡々と説明しなければ。 「颯真とそういうことになったきっかけは、母さんの言う通り、年末の発情期だった」  正直、あの時の心情を素直に話すのは、少し未熟で恥ずかしいような思いがある。しかし、あの時の奢った自分の考えが、颯真の決断を促し結果としてこのような結果になったのは事実だ。 「あの頃、僕は発情期を一人で乗り越えることなんて何のこともないと思ってたんだ。自分の体質なんてよく分かっていないくせに、発情期をまともに越えた経験もないくせに。多分、颯真の方がことの深刻さを認識してたと思う。  案の定、僕は根を上げて一人で苦しんで。自分の甘さを痛感しつつ、結構しんどい姿を颯真に見せちゃったんだ」 「潤……」 「こうして発情期に番もおらず一人で喘いでいるのは、一人で発情期なんて乗り越えられるとたかを括り、番を作る努力を怠った自分のせいであると……拗らせた結果、僕はそう思ったんだ。これは今まで自分の第二の性と向き合うこともせず、目を逸らして相手も探さず、一人で越えられると思い上がっていた自分に課されたペナルティだと思った」  茗子は痛々しい表情を浮かべつつも、真剣に潤の言葉に耳を傾けている。 「ずっと想いを秘めてきた颯真には堪らなかったと思う。だから、颯真は決断した。二人で発情期を終わらせると。……僕もそれに乗った」 「……ねえ、もしあの時、私が無理を言って家に連れ帰っていれば……結果は違ったのかしら」  潤は、少し首を傾げた。  もし、茗子が実家に帰らないかと持ちかけてきたところで、自分が「帰る」という選択をしていたら。 「違ったとは思う。でも、あの時実家に帰るという選択をしたとして、それが結果的に良かったかというと、そうではないと思う」  実家に戻れば、おそらく颯真とこのようなことにはならなかっただろう。  しかし、あの時以上に辛い発情期が続いただろうとは思う。もしかしたら、発情しながら年を越していたかもしれない。  潤は茗子を見つめる。茗子は、揺れる瞳を潤に隠さなかった。 「発情期を最短で終えることはできなかっただろうし、メンタルでダメージを受けて、ひょっとしたらそれまで以上に拗らせていたかも。  ……自分の第二の性を受け止める余裕なんて、今でもなかったと思う」  それに、颯真一人だけにあれ以上の思いを背負わせることはできないとも思った。 「僕はあの時、どんなに言われても実家に帰ることはなかったと思う。だから、これで良かったんだ、母さん」  そして、あの時こうしていればと、茗子に悔いを残すこともさせたくない。 「後悔はないのね」  潤はすっと茗子を見つめて頷いた。 「ない。全く」  でもさ、と潤は言葉をつなげた。 「とは言っても、颯真の気持ちは当時の僕にとって青天の霹靂だったんだけどね」    大晦日の朝、前夜の行為を医師としての医療行為であったと信じたかった潤に、颯真は容赦なく「俺のオメガだ」と言い切った。颯真の真意を知った潤は、激しく動揺した。 「情けないけど、当然だよね。僕の中ではそんな気持ち、これまで一ミリもなかったんだもの」  ひどいくらいに颯真を拒絶して……と潤は思わず口を噤んだ。  しん、と室内が静まった。手前のフロアのざわめきが、潤の背後から微かに聞こえてきた。 「颯真は考える時間が必要だと思ったようで、冷却時間をくれたんだ。結局一ヶ月半くらい、ほとんど顔を合わせなかった」  それには茗子も頷いた。 「年末年始に、颯真が仕事って言うのも、あれからしばらくうちから仕事に行っていたのも違和感があったの。喧嘩でもしたのかと思ったけど、兄弟離れができたのかしらねって、和真さんとも話したのよね」  両親の想像に潤は苦笑する。 「そうじゃなかったね。……今考えると、情けないくらい動揺したんだ。颯真が言うことも考えていることも同意はおろか理解もできないのに、自分が颯真を求めたことはちゃんと覚えていて。自分は何をしたんだって思った。無意識に取り返しのつかないことをしたと。でも、あれが本能なのだと、わかるのにかなり時間が必要だった」 「潤も辛い思いをしたのね」 「……僕は支えてくれる人がいたから」  潤は首を横に振る。江上と尚紀の顔が思い浮かぶ。 「友達って、大切だよね」  潤がそういうと、茗子はそうね、と笑った。

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