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会話が途切れたのを見計らったように、ウエイターが前菜とサラダを完食した皿を下げていく。潤はそれを静かに見守った。そしてビーフシチューとパンが供された。
長時間かけてじっくり丁寧に作られたデミグラスソースが決め手なのだという。ランチはこのビーフシチュー目当ての客が多いとのこと。茗子も大好物なのだそうだ。
ウエイターが退室するのを見届けて、潤は覚悟を決めた。
茗子はフォークとナイフをスプーンに代えて、嬉しそうに目の前のビーフシチューを頬張っている。
「母さん」
「ん? なに?」
潤は核心に触れるために、密かに深呼吸をした。躊躇いなく、はっきり言いたい。
「この間も言ったけど、改めて言いたい。颯真は僕の番だ」
茗子がスプーンを持ったまま、手を止めて潤を見た。
「颯真の想いに向き合うきっかけはいろいろとあったけど、僕にとって大きかったのは、すっかり忘れていた最初の発情期の記憶が戻ったからなんだ。あれで完全に覚悟がついたと思う。もうぶれない」
松也に媚薬を盛られ、それを抜くために颯真と交わったあの夜に蘇った記憶。気持ちは決まっていたとはいえ、あれがダメ押しだった。
しかしその報告は、茗子にとって少し意外だったようで。目を丸くしている。
「……最初の発情期って」
もちろん、茗子だって忘れているわけではなかろう。
「僕が高校生のときの。初めての発情期」
再び、室内が静まり返った。
「あなた、思い出したの?」
茗子は目を見開いている。潤は頭を下げた。
「長い間、心配をかけてごめんなさい。すっかり思い出した。なんであんなことを忘れていられたのか、自分でも呆れた」
颯真から、潤はあまりに辛い発情期を忘れようとしたのではないかと、天野医師が分析したと聞いた。それでも、初めての発情期で辛い思いをしたのは、自分だけではない。
「本当に僕は薄情だなって。颯真だけじゃなくて、父さんや母さんにも心配かけたし、天野先生にも……」
茗子は驚いた表情を浮かべたまま。無言でスプーンを置き、立ち上がり、空席だった潤の隣の椅子に腰掛けた。
潤の手を取り、顔を覗き込む。そして探るように気遣う表情。こんなに心配をかけていたのかと、潤は改めて思い知る。
「本当に? 大丈夫?」
潤は頷いた。
「うん。颯真が……」
「颯真?」
颯真の香りが、潤に初めて彼の香りを求めた時のことを思い出させてくれた。
「颯真の香りがきっかけだったのかも」
「……あの子、仕事柄きっちり香りを抑えているけど、それはきっと潤のためでもあったのよね」
もちろん自衛の意味はあるだろう。優しく見守るために必要なことでもあったに違いない。そして記憶を失っている潤の負担になることを避ける判断もあったのだと思う。
今回は、さまざまな要素が重なって、記憶を取り戻した。
「大丈夫だったの? ショックを受けたり、辛かったりってことはない?」
茗子の心配が少しこそばゆい。潤は少し照れるように頷いた。
「大丈夫。心配かけてごめんね」
「いいのよ……それは」
茗子にとって、息子が記憶を失うほどの出来事に遭遇する、というのは予想外の出来事だっただろう。記憶を失っていたことが、そこまで心配をかけていたことだったとは。
「戻った時は本当にあっさり、頭のどこかに記憶が残ってて、それがふいっと溢れた感じだった。正直、忘れていた自分が信じられなかった」
心配そうな表情を隠さない茗子に、颯真も驚いていたよ、と潤は報告する。
すると茗子は、潤の手を両手で包み、頷いた。
「そうなの。颯真が。でも、ああ、本当に……」
茗子が安堵の吐息を何度も漏らす。
だからさ、と潤は続けた。
「僕は大丈夫だよ」
潤はもう一度言う。
「母さんと父さんにもすごく心配かけたけど、僕はもう大丈夫だから」
茗子が潤の背中をぽんぽんと叩いた。
「潤……」
茗子が潤を見つめる。茗子の目が少し潤んでいる。
「父さんや母さんはもちろんだけど、僕は颯真にも心配をかけて、孤独な時間を背負わせた。
颯真は、自分にとっても、僕にとってもあの時間は必要だったと言ってくれた。それでも颯真が苦しんだ十二年は消せないんだ。僕は、それ以上の時間を、彼と一緒に歩きたいって思ってる」
すると茗子の目が鋭く煌めく。
「それは、決して罪悪感から来ている感情ではないのよね?」
茗子の指摘は鋭い。
「違うよ」
父さんが発情期の時だけ協力しあえばいいだろうって言っていたでしょう? と潤は切り出した。
「アルファとオメガの本能の繋がりと番の絆は父さんも母さんも分かってると思う。だから、そういう心配をして、代案を提示してくれたんだと思う。でも、もう僕と颯真の間では、互いが番だと決めてしまっているんだ」
「意志は固いのね。
そういう人生を定めて、後悔はないのね」
「時々……、年末の発情期の時のことを考えるんだ。
颯真は苦しむ僕をずっと看てくれた。すごくいろいろなことを考えたんじゃないかなって思う。
颯真は子供の頃から僕を番と思ってたんだって。小さい頃から兄弟で番うことを考えていて、それって有りなのか答えを求めて文献をあさったりして、一人で考えていたらしい。周囲に受け入れてもらえないことも随分早くに自覚していて、かなり傷ついたと思う。
そして、僕が発情期になって、颯真は改めて覚悟を突きつけられたんじゃないかな。
長年願っていたことを、実現可能なところまできたけど、実現させるにはまだ問題が山積している。
僕たち兄弟の変化は、走り始めてしまったらきっと止まらない。そして、多分元には戻らない。関係は兄弟から一変してしまう。
それをもし僕が受け入れられなかったら……。一人で決めるには重くて、不安しかなかったと思う」
年末の寒々しい気候の中、薄暗いリビングで、一人で颯真はそのようなことを考えていたに違いない。それがどんなに孤独で不安に満ちたものであったのか。
それを、アルファといえど、全てあの片割れに背負わせてしまった。
「発情期の最中、颯真の気持ちを知らなかったとはいえ、僕自身も颯真を追い詰めた。もちろんきっかけはそれだけじゃなかったと思う。いろいろあったけど、あそこで僕と颯真は協力して発情期を乗り越える決断をした。颯真は兄弟関係がおかしくなる可能性は考えたと思う。それでも、颯真はあのタイミングで決断してくれたんだ」
「さっきも話したけど、颯真は子供の頃からだから、母さんや父さんが考えていた時間よりも、はるかに長く多くの時間をかけて考えてきたと思う。想定される拒絶や拒否の目、反論、批難、それらを自分の中で受け止めて、この結論を出したと思うんだ」
颯真ならそれくらいはやるでしょ? と潤は茗子に同意を求めた。
「……」
茗子は答えなかった。
潤は腹に力を込めて告白する。
「そんな颯真が相手なんだ。僕はいつか会える相手より、そんな颯真を選ぶ。一緒ならどんな苦労もできる。それくらいの覚悟はついてる」
茗子は潤を見つめた。それを潤も柔らかく受け止めて見つめ返した。
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