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「颯真は、これまで孤独だったと思うんだ。だから、僕は颯真と兄弟とは違う家族になりたい」
茗子が潤をそっと抱きしめた。母の優しい香りが、潤の鼻腔をくすぐる。
「そうなのね……」
その呟きに、憂いと諦めに近いような声色の中に、僅かに容認するような空気があることを潤は感じた。自分の母親であると同時に、颯真の母親でもある。複雑な感情が入り混じっているようにも思える。しかし、じっくり腰を据えて話を聞いてくれるのは、理解しようと努力してくれている表れと充分に分かっていた。
「もう颯真と一緒に生きる道に定まってしまったのね」
颯真と、互いを唯一として、生きていきたい。苦楽を共にしたい。
潤は頷く。
「うん。僕は、颯真のオメガだから」
すると、茗子は少し目を見開いて潤を見た。
「……あなたが、これまでずっと第二の性を受け止められないことは知ってたわ。でも、こんなことがきっかけで、その自覚が出るなんてね」
これまで茗子とそのような話をしたことはなかったし、正直話すのは恥ずかしいと思っていた。なのに、茗子には見破られていたらしい。颯真と茗子にバレていたら、おそらく父和真だって……。オメガという性を受け入れられていないことは、なんとなく隠してきたつもりだったが、言わなくても伝わってしまっていた。家族が何も言わなかっただけだった。
潤は苦笑した。
「ほんとにね。僕も驚いた。
颯真を自分のアルファだと実感すればするほどに、自分がオメガであって良かったと思えるようになった。
なんで颯真はアルファなのに、僕はオメガなんだって、ずっと思ってきたし、受け入れられない事実でもあったのに。不思議だよね」
茗子がそっと目を伏せる。
「潤、あなたがどうしてもオメガという性と向き合いたくないのであれば、普通に女性と結婚して、男性としての幸せを選んでもいいと、わたしは思っていたの」
その茗子の大胆な告白に潤は驚いた。オメガの男性がベータやオメガの女性と婚姻関係を結ぶことは、一般的ではないものの、可能ではある。向き合えないならば、第二の性に縛られることはないと考えてくれていたことを、潤は初めて知った。
また、それと同時に、適齢期になっても番を見つけろと勧められなかったのは、そのような意図があったからだと悟った。潤は、自分自身が茗子の深い愛情に長く守られていたのだと改めて感じた。
「潤、いいこと? あなたが幸せになることが大事なのよ。アルファとかオメガとか、男性とか女性なんて関係なくて。あなた自身の幸せをわたしは願ってる。それはお父さんも一緒よ」
潤は無言で頷く。胸から熱く込み上げるものがあって、言葉には出せなかった。
「母さん……。ありがとう」
潤は、茗子を労るように背中をさする。こんな無償の愛を傾けてくれる人に、どのように感謝を伝えたらよいか。
潤は母を抱き寄せながら、何度も呼吸を整える。
「母さん」
潤は呼びかける。
「僕をオメガに産んでくれて、ありがとう」
驚いた様子で一瞬身体を硬くした茗子が、潤を少し離す。
茗子は、これまであまり見たことないくらい、驚いたような表情を浮かていた。
こんなことを言える日がやってくるなんて、想像もしていなかった。
「……これまでは、どうしても言えなかったんだ。今更でごめんね?」
すると、茗子の目がふわりと揺らぎ、表情が歪んだ。それを隠すように彼女は顔を伏せた。
「そんな……、なんで」
茗子が顔を伏せたまま、頭を左右に振る。潤は、茗子をそっと抱き寄せた。
自分の感謝の気持ちが、茗子の胸に届いているようで安堵した。
「……正直言うと、ずっと申し訳なく思ってた」
茗子はぽつりと一言、漏らした。
「なんで潤もアルファに産んであげられなかったんだろうって」
その言葉に潤は驚いた。
ずっと自分はなんでアルファに産まれなかったんだろうって思って生きてきた。産んだ母を恨むなんてことは、これまで発想もなかったが、なぜ自分だけオメガに、と思い拗らせた分だけ、茗子もまた後悔を伴って生きて来たのだ。
自分もオメガという性で生きてきて、番にも家族にも仕事にも恵まれたけど、楽なものではなかった。それを潤が背負わないとならないのかと思うと、本当に申し訳なかった、と吐露した。
これまで茗子が自分の性について想いを述べることはなかったと潤は記憶している。それを受け入れられていない息子の前では絶対に言えないことと思っていたに違いない。
「思春期の男の子が、あの時期にオメガである事実を受け止め、初めての発情期を受け入れることは、本当に大変だと思うの。
……なんで、潤をアルファとして生んであげられなかったんだろうって」
潤は茗子を抱きしめた。
それは考えても仕方がないことだが、それでも考えてしまうことだったのだろう。普段、潤が思う茗子という人は、とても合理的な考え方をする、迷わない人だった。なのに、こんな考えてもどうにもならないことに囚われていたとは思ってもみなかった。
ごめんね、と口にしかけて潤は言い止まる。きっと、彼女が聞きたいのは謝罪ではないのだろうと思ったためだ。
「……心配してくれてありがとう。でも僕は大丈夫だよ」
「潤」
「颯真も支えてくれた。なんで、どうして、って思うことも多かったけど、ここに至ってしまえば、必要なことだったって思える」
潤は自分の甘さを内心で実感した。父和真を説得するには、やはり自分で行動で示さないとならないのだと思った。
正直にいえば、和真への説得にはまずは茗子の説得から、と計算していたところがある。茗子が分かってくれれば、とりなしてくれるのではないかと無意識に計算していた部分もあったのだ。森生家において家長の和真の判断は絶対だが、そこには茗子のアドバイスも色濃く反映されていることを知っている。
だからこそ、オメガ同士で話し合いたいと思っていたのだ。
しかし、茗子の、こんな意外な脆さを目の当たりにしては。潤はいつまでも頼るわけにはいかないと強く感じる。自分の言葉で行動で、和真を納得させ、心から祝福してもらいたい。
「僕たちはちゃんと前を向いてるよ。父さんに言われたこともきちんと考えてる。
もし番ったら、身内の反応や、職場や世間、受け入れてくれる人はいるのか。自分たちの味方になる人はいてくれるのか……。
たぶん颯真は、年末に一人で年末にそこまで考えていたと思う。どう考えても孤独だよね。でも、今は僕も一緒になってそれを考えてるよ」
「お父さんがいうことは現実なの……。決して意地悪で言っているわけではないのよ。現実を知って欲しいの」
茗子の言葉に潤も頷く。
「うん。分かってるよ。正論だって。確かに、この間は僕も気持ちが通じて、少し浮かれてた部分もあったんだ。ちょっと反省したし、颯真も諦めてない。ちゃんと結論を出して許しを得たいと思う」
「お父さんも分かっていないわけではないの。ただ、心配なのよ」
わかってあげて、と茗子は言う。
先日の颯真と和真の間に流れた険悪な空気を思い出した。
「父さんは少し颯真に厳しいね……」
「アルファとしての責任を求めてるのよ。潤が颯真ではないアルファと番いたいと連れてきても、きっとああいう反応になったわね。
お父さんも、あなた達が番うとなると、その父親として覚悟も固めていると思う。そういう人なの」
茗子の気持ちも十分に伝わる。
「そうだね……」
潤は頷いた。
その時、いきなり潤の背後の個室のドアが開いた。
「茗子!!」
きき覚えのある声だったが、潤は驚いて肩が跳ねる。
そして、とっさに振り返った。
そこに立っていたのは、パンツスーツ姿で首にスカーフを巻いた、スタイルの良い高身長の女性。この店のオーナーでもある真木瑤子、茗子の高校時代からの友人だった。
瑤子は華やいだ声を上げた。
「やだわぁ。どこのイケメンを連れ込んだのかと思ったら、潤じゃない」
しかし、茗子も負けていない。というか動じていない。
「あら、瑤子。戻ってこれたのね!」
潤が抱擁をあっさり解くと、椅子から立ち上がる。
「だって来てくれるのひさしぶりじゃなーい! 連絡を受けて速攻で飛び出してきてしまったわ」
少々情熱的で決断が速いのが、茗子の親友の瑤子の性格だ。そして、相変わらずのテンションだ。
「潤も、久しぶりねえ!」
「久しぶり、瑤子さん」
すると、瑤子は何の躊躇いもなく潤を抱き寄せる。距離感が違うだろうと潤はいつも思うが、この人にそれを言っても無駄であることは幼い頃から重々承知している。
「あーもう可愛い子! だけど、いい? わたしのことは瑤子ちゃんと呼びなさい」
なぜか「瑤子さん」と呼んだことがお気に召さなかった様子だ。
「可愛いってさ、僕もういい歳なんだけど……」
「そんなの関係ないわ。わたしにとっては子供子供」
「いや、子供じゃないし……」
すると瑤子は真剣な表情で潤の言葉に被せて訂正してきた
「いいこと、潤。そういう可愛くないことは言わないのよ。わたしは子供がいないから、茗子の子が自分の子みたいに思えるわ。
子供産んでないのにラッキー」
瑤子は爽やかな笑顔を見せた。
もう完全に話は瑤子のペースだ。潤は諦めた。
「あのさ、瑤子さん」
「瑤子ちゃん」
「さん」と「ちゃん」にどのような違いがあるのだと、潤は少し不満に思う。
「いや……、三十路手前の男がちゃん付けを使うのは、少し恥ずかしいんだけど」
しかし、瑤子は意に留めない。
「そんなことに拘ってるの? 若いのに頭硬い! 自然体でいいのよ。颯真なら躊躇いなく『瑤子ちゃん』って言ってくれる気がするな」
「あぁ……確かに。颯真のほうがそのあたりは頭は柔らかそうよね」
茗子は親友の出現で完全にペースを取り戻したらしい。茗子がそう同意すると、瑤子と一緒に楽しそうに笑い合った。
潤はふと考える。
瑤子は茗子の親友であるため、幼い頃……それこそ産まれる前からの付き合いになる。瑤子曰く、乳幼児期は双子の世話で朦朧としていた親友に代わって、和真とともに双子の面倒も見たことがあるほどに親密な付き合いだったそうだ。「あんたたちのおしめも替えたわよ」というのが、小学生くらいまで聞かされていた口癖だった。
血縁関係はないものの、幼い頃から知っている母の親友は、他人だけど身内のような人。
そんな瑤子が、もし、潤と颯真の関係を知ったら、どう反応するのだろう。
嫌悪して拒絶されるのか、もしくは受け入れてくれるのか。インセスト(近親相姦)は人類社会の宗教や文化にも絡めて根付き、脈々と受け継がれてきた禁忌だ。犯せば制裁が加えられる。そうやってこれまで文化と秩序が守られてきたのだから。
両親の説得さえも叶っていないのに、自分たちのことを祝福してくれる他人が、どのくらいいるのか。
久々の再会に沸く、茗子と瑤子を見つめながら、潤はそんなことを考えた。
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