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 潤にとって、毎朝オフからオンに切り替えるスイッチは、パリッとしたワイシャツに袖を通し、プレスされたスリーピースを身に着けることだ。ウール地のシャドウストライプのスリーピースを身に着け、ネクタイを締めると、それだけで気分が引き締まる。 「おはよう、今日も俺の潤は凛々しいな」  リビングで朝食の用意をしていた颯真からそんな風に言われて、少し甘い気持ちが湧いてくる。引き締めた気持ちが緩んでしまいそう。そんな颯真の言葉を嬉しい気持ちで受け止める。  二人で軽く朝食を摂ると、定時には社用車がやってくる。一緒に部屋を出て、颯真と一階のエントランスで別れると、潤はそのまま車寄せに停車しているレクサスに。颯真は地下駐車場に向かう。    今日は月曜日。また新しい一週間の始まりだ。  一年で一番寒い時期の日の出の時刻。 「おはよう」  潤は、毎朝迎えにきてくれる馴染みのドライバーに、いつものように挨拶を交わす。 「社長、おはようございます」  後部座席に着いてシートベルトを締めると、社用車として機能するレクサスはゆっくりと自宅マンションのエントランスを離れ、幹線道路の波に滑り込んだ。  暖かい車内でスマホを取り出して改めて眺める。その待受になっているのは梅の花。少しこそばゆい気持ちになる。というのも、自分のスマホの待受をいじったのなんて初めてだからだ。昨日、颯真とデートで行った北鎌倉の風景を切り取ったもので、あまりに梅の花と青い空とのコントラストが美しく、そのままスマホの待受にしてみたのだ。  週末は楽しかったなと思い起こす。  土曜日の昼に実家に戻り、茗子と膝を突き合わせていろいろと話した潤だったが、その日は実家に泊まることになった。父和真が不在ということもあり、颯真も仕事が終わったら実家に帰ると言い出したためだ。急遽そのようなことになったが、茗子は子供が揃うのは嬉しいようで張り切って、双子の大好物であるお手製の唐揚げを夕食に作ってくれた。  茗子は、颯真が帰宅してからあえて昼間の話を蒸し返すことはなく、三人の時間を楽しんでいた様子。夕食後には茗子の提案で、そのままサンルームに移動してお酒を飲みながら、他愛の無い会話を楽しんだ。  先週末は父和真との関係が険悪になり、颯真も眉間に皺が寄りっぱなしだったが、土曜日はそのようなことはなく、終始穏やかな雰囲気でともに楽しい時間を過ごせたようだった。  そして日曜日、実家を昼過ぎに出て、マンションに帰る前に寄り道をすることにした。気持ちを確認しあって初めての外出で、デートだと気分が上がった。颯真の運転でドライブを楽しみ、北鎌倉の寺院で満開の梅の花を愛でて、鶴岡八幡宮を参拝し、そこから少し足を伸ばして奥鎌倉の瑤子のレストランで早めの夕食をとって帰宅した。  ディナータイムのピークよりかなり前だったためだろう、突然の予約の電話でも瑤子は喜んで対応してくれた。 「颯真もぜひ連れてきてって確かに言ったけど、昨日の今日だと思わなくて、びっくりしたわ」  潤にそうぼやいていた瑤子だったが、久しぶりに会った颯真がかなりの男前に成長しているのを目の当たりにし、終始あのテンションで再会を喜んでくれた。  一方、颯真も母の親友との再会は、久々で楽しかった様子。  颯真は、潤が躊躇いを覚える瑤子のテンションも接触距離の近さもあまり気にならないようで、さらに、女性陣二人の予想通り、彼女を躊躇いなく「瑤子ちゃん」と呼んで、瑤子を歓喜させた。  ……潤は、改めて自分の頭の硬さを実感した。  また、こういう休日を送りたいなと、スマホのカメラロールを見ながら潤は考えつつ、車内でゆっくり仕事モードに切り替えた。  しかし、いつものルーティーンから始まる、穏やかな週始め……というのは、潤が出社して三十分ほどで破られた。 「社長」  いつになく渋い表情を浮かべて硬い声で、社長室の扉を申し訳程度のノックで入ってきたのは秘書室長の江上。社長室へのそのような入室方法を唯一許している存在だ。今朝は潤よりも少し遅い時間に出社すると聞いていたから、一緒に出社しなかったのだが、もう出て来ていたのかと少し驚いた。 「おはよう。まだ八時だよ。早いね」  潤がそう挨拶すると、江上も思い出したように「おはようございます」と返事をしてから、手にしていた新聞紙を掲げた。 「これ、ご覧になりました?」  東都新聞の朝刊、首都圏版だ。 「いや?」 「先日のインタビューが記事になってます」 「掲載、今日だったんだ」 「事前に連絡はなかったようですが」  江上の言葉に棘を感じる。記事の事前チェックを断られることが多い新聞社だが、掲載日を事前に連絡してもらうことは可能だ。企業とマスコミは持ちつ持たれつの関係というのもあるが、掲載日に他のマスコミへの対応が必要なケースなども出てくるためだ。すべては担当記者との関係性によるところが大きいが。社長秘書の江上がそのあたりに敏感なのも無理はない。  異変を潤も感じる。 「何かあった?」  その問いかけに、江上は手にしていた新聞を開き、背の部分を反対に折り返し、潤の前に見せる。中面の社会面だった。 「これです」  自分の大きな写真が掲載されていて潤は驚く。  東都新聞は、在京五紙のうちの一紙だ。正直、たかが一製薬企業の社長インタビューがこんなに大きく扱われるとは思わなかった。紙面の半分を占有する勢いに潤は意外な思いを抱く。  そして、見出しは……。 「アルファ・オメガ領域の医療費は拡大傾向   フェロモン療法は“充実” 森生メディカル社長インタビュー」  落ち着いて文字を追ってみると、医療費が拡大傾向となる要因の一つに、オメガのフェロモン抑制剤と誘発剤があるという論調で書かれている様子。  確かに「傾向」という表現に予防線を張ってはいても、潤はインタビューで「医療費が拡大する」と明言した覚えはない。  常に医療費は抑えたいと行政は思っているのだから、迂闊にそのようなことを製薬会社のトップが言えるわけがない。かなり気をつけて発言しているつもりだった。そんな思惑を丸無視された気分だ。 「……かなり決めつけが強い論調で書かれるのは困るんだけどな」  潤が困惑してデスクに肘をついて手を組んだ。 「社長。これを見開きにすると……」  江上はそう言って半分に折っていた新聞紙をすべて広げ、見開き状態にする。  すると、潤のインタビュー記事の右隣のページに踊る大きな見出しに驚いた。 「オメガの少年を利用し犯行に及ぶ悪質な手口  アルファを狙った横浜オメガ集団恐喝事件」 「なにこれ……」  そのインパクトに驚き、思わず潤はつぶやく。  自分のインタビュー記事の隣に、かなりセンセーショナルな言葉が踊る事件が扱われていた。横浜オメガ集団恐喝事件? オメガを利用? 悪質な手口? 「今朝はこのニュースを各社が一斉に取り上げています。テレビも。  昨夜、神奈川県警が横浜市内でアルファを狙ったオメガの犯罪グループを検挙したそうなのです。  聞けば、海外から不正に輸入したフェロモン誘発剤を使ってオメガを発情状態にさせ、通りかかったアルファにヒートを起こさせる。そのオメガがアルファに暴行されている光景を映像に収めて、後日恐喝し金銭を要求するという悪質な手口だそうです」  なんだ、その無茶苦茶な事件は、と潤は言葉を失う。  昨日から全くニュースはチェックしていなかった。不覚だ。  それよりも、と懸念が湧き上がる。 「この記事と抱き合わせて、見開きで見られたら……。僕のインタビュー記事はかなり印象が変わるな」  それもかなり良くない方向に。  潤の呟きに、江上も真剣な表情で頷いた。 「さすが鋭いですね。その通りです」  社長インタビューの隣に、あえてこのような事件の関連記事を載せてるんですよ、あり得ないでしょうと、江上が静かに憤る。  潤の主張は、医療費は拡大傾向かもしれないが(もっとも潤はそれを明言していない)、今後は医療の恩恵を受け、オメガが社会進出しやすくなり、その恩恵が社会に還元されていくという、期待の論調だったはず。  しかし、オメガの恐喝グループという現実の事件を目の当たりにすれば、読者はどう思うか。そのような希望論は、残酷な現実の前に打ちのめされる。  フェロモン抑制剤を製造販売する製薬企業の社長だから、そのような呑気なことが言えるのだ、さらに同じオメガだからと庇うのか、という批判がてでもおかしくはない。  配慮が足らなすぎる。  いや、紙面上で記事を当てることで、潤の主張を否定しているに他ならない。   「悪質です」  江上が言い切る。  マスコミが編集権という紙面構成を使って、記事にもせず言葉には出さずの主張を展開することはあると、話に聞いたことはあった。しかし、実際に自分の記事でそのようなことが行われるとは思ってもみなかった。 「……うん。確かに恣意的で悪質だ」  潤も唾を飲み込んで、頷く。 「とにかく広報部長が出社次第、対応を相談します」  江上の毅然とした反応に頷きつつも、潤はわずかに気分が落ち込んだ。  正直、マスコミがこのような方法に打ってくるとは想定外だった。異論があれば正面から疑問を投げかけられるものだと思っていた。製薬企業とマスコミは持ちつ持たれつという関係性を、少し甘く見ていたのかもしれない。  自分の失態だ。しかし、落ち込んでいる場合ではない。 「社長?」  江上が少し心配そうな声で問いかけてくるのを、潤は表情に曇りが出ないよう、意識して顔を上げた。 「そうだね。わかった。よろしく」  正直にいえば、気軽に取材に応じた後悔が、じんわりと胸に湧き上がっている。リカバーできない失態ではないが、対応を間違えたら、と思うと不安も過ぎる。  しかし、当然このような後悔を社内では見せるべきではない。思わぬ事態に気持ちの整理が追いつかないが、無理矢理感情に蓋をした。  すると、潤の肩に江上の手が添えられた。 「大丈夫。社長は決して取材でおかしな主張をされたわけではありません。それは私と広報の加賀谷くんが十分存じています」  江上の目は力強い。潤は笑みを浮かべる余裕を得た。 「ふふ。ありがとう。僕は大丈夫」  この親友が、自分の秘書をしてくれていて本当によかったと、潤は思った。 ୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧ 潤と西宮のインタビュー取材の詳細は、3章9〜10話で展開されています。復習されたいという、ありがたやな方がいらしたらぜひ!

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