117 / 215

(27)

 佐賀安則。その名前を、もう潤は口にしたくない。口を噤んでから、一言漏らした。 「それは、最悪だな」  ただ、そうなると、先程江上が東都新聞社に厳しい対応を求めたのが納得できた。 「西宮記者が経済部に所属していた頃に、勉強会や懇談会で二人で親しげに話している姿を見かけていた人が複数いました」  潤は、その証言に単純に驚く。  企業の取締役と経済部記者と言う立場の人間が親しげに話をしていれば、あれ、とは思うかもしれないが、特段身分をかざして談義しているわけではない。特段目立つわけでもなく、普通ならば埋もれてしまう一風景に違いないのに。一体誰が気にして見ているというのだ。 「すごいね。よく見てるなあ」 「……新聞記者は同業者の動向をよく見ているようですよ。誰と誰が親しいとか、どこでどのような取材を行ったとか……」  行政担当や企業担当で記者クラブ付になれば、顔を合わせる同業者も多いでしょうしね、と江上が言った。  なるほど。同業者の目というのは意外に多いのかと潤は思う。 「面白いね、MRと似てるね」 「同僚より、他社の同業者との接触が多いという点では一緒ですね。自然とそうなるのだと思います」 「そういう話ならば、もっと攻撃的に行っても良かったかもしれないけどな」 「いえ、社長のご判断が正解だったかと。今は微妙な時期ですし。少し私は感情的になりすぎました」  江上が業務中に感情をあらわにすることはあまりない。感情的になったのは、おそらく自分の代わりに怒ってくれたのだろうと潤は思った。上司と部下の関係でも、江上との間の根底にあるのは友情だ。 「怒ってくれるから、僕は冷静でいられたんだけどね」  潤は照れた。  すると、デスクに放置していたスマホが突然揺れ出した。 「長々と失礼しました。わたしはこれで」  江上がそう下がるのを潤は見送って、スマホをタップする。  その発信元は、珍しい人物の名。  メトロポリタンテレビの片桐要だった。 「森生社長、ご無沙汰しております」  潤は片桐の、同年代にもかかわらず擦れていない真っ直ぐな姿勢を思い出す。何度か連絡はとったが、実際に会ったのは新年の賀詞交換会だ。 「こちらこそお久しぶりです。その後、取材は順調ですか」  潤がそう挨拶すると、片桐はそれには乗らずに、今日の東都新聞を拝見しました、といきなり本題を突きつけてきた。  当然、それで連絡をしてきたのだろうと潤も思う。  思わず、スマホを手に苦笑がもれる。 「思わぬ形で掲載されて、戸惑っておりますよ」  そう冗談じみていうと、片桐は、インタビューは東都新聞の誰が行なったのかと聞いてきた。  そういえば、記事には記者の署名が入っていなかった。 「社会部の西宮浩一記者です。先週、取材を受けました」  すると、片桐が、あああ、と驚きとため息とも取れるような反応を見せる。 「西宮さんですか……、変な眼鏡を掛けている人ですよね……?」  思わず潤の口が綻ぶ。かろうじて声に出るのは抑えた。  彼のトレードマークであろう、べっこう柄のボストンタイプの眼鏡を片桐は変な眼鏡と表現したのだ。そのストレートな評価に、潤は可笑しみを覚えた。  彼のトレードマークは十分に役立っている。 「ふ。それは……その通りでしたが」 「災難でしたね」 「この記事では、そのように読み取れますよね」 「今日の東都新聞の特ダネですよ、社長の隣の記事」  すると、片桐はするりと内部事情を教えてくれる。 「あのオメガの少年が利用されたことは、外部には漏らさないということで話がついていたそうですが、どうも東都新聞はそれを無視して書いたようなのです」  片桐によると、マスコミが所属する記者クラブにはそのような情報開示の範囲が指定されることがあり、それを犯すと、関係各所への出入り禁止や資格停止などのペナルティが課せられるらしい。 「本当ですか」 「それを本当に犯したかについては今後の検証になると思いますが、事実としては、神奈川県警と彼を収容している医療機関サイドが激怒しているそうです」  彼を収容している医療機関となると、誠心医大横浜病院か。 「ただ、東都新聞としては、あの記事は県警サイドでも医療機関サイドからキャッチしたものではなく、別ルートから得ていたと主張しているようで。しかも、すでに週刊誌もキャッチしていたようなので、表に出るのは時間の問題だったと主張していると言う話を聞きました」  スクープで有名な週刊誌の発売は毎週水曜日。そうなると、今日明日のタイミングで出してしまうのがベターだったのだろうと潤も考える。  とはいえ、それが自分のインタビュー記事と同じ紙面に載ることの正当な理由になるかと言うとそうではない。 「正直なところ、私の記事はとくダネの引き立て役ですから、そのまま静かに消えてくれることを願わずにはいられませんね」  潤がそう冗談とも本気とも言えるようなことをいうと、その程度で終わるといいですね、と片桐も応じた。  しかし、佐賀と交流のある西宮が関与しているいう時点で、こちらとしては楽観など決してできはしないのだが。 「気をつけてください」 「何をです?」 「東都新聞社です。彼ら、何かこそこそ動いています。杞憂で終わればいいのですが」 「わざわざそれを知らせに?」 「あの記事、変ですもん! ミスリード気味ですし、どこまで森生社長が話されたものなのか、誰が書いたのか、とても気になりました」  確かに、片桐が制作した密着ドキュメントは、社内外の関係者からはとても好評だった。それゆえに、気になるのだろうと潤も思った。  マスコミ関係者は同業者の動向を良く見ているという。 「ご連絡いただいた電話で申し訳ないのですが、ちょっと教えていただきたいことがあるんですが。良いですか」 「社長が僕に。それは嬉しい。なんでしょう」 「西宮浩一記者、同業者ではどんな評価なのでしょう」  少し沈黙した。考えている様子。 「……僕は映像なのですが、新聞記者には記者の評判があります。その方が正確かも。ちょっと知り合いに聞いてみますね。改めて連絡します」 「よろしくお願いします」 「私でご協力できることがあるのならば嬉しいです」  真っ直ぐな返事に、この青年の爽やかな気質を感じ取る。 「あと、もう一つお伝えしておくことがあります」  潤は片桐に切り出す。 「なんでしょう」  片桐に問い返された。思えば、「オルム」という団体の存在は、片桐から伝えられたものだった。ならば、今持っている情報を彼に還元するべきだろう。 「西宮記者ですが、片桐さんが以前お話されていた『オルム』と関係があるかもしれません」 「え!」  思わぬ話だったのだろう。驚きのあまり言葉を失ったのが潤にもわかった。  片桐には、かつて江上が調べ上げてきた、オルムの前身となる組織のことから、組織の乗っ取りの件、さらには資金を支援しているのは東邦製薬の公益財団法人であることをすでに伝えてある。  その時には佐賀の件はあえて伝えなかったのだが、佐賀と西宮が繋がっていると考えれば、その関係性にもいずれは容易に辿り着いてしまうだろうと考えた。  ならばこちらから明かしてしまう方がいい。元社員が関与してしていることを。 「オルムに出入りをしている関係者と、かつて交流があったと聞いています」  潤は、その関係者が、昨年末に森生メディカルを退職した幹部だったので気になっていると話すと、相槌を打つ片桐の反応が次第に瑞々しさを増してきていることに気がつく。やはり片桐もマスコミ人だ。自分が知らない情報に触れると生き生きする。 「その話、詳しく知りたいですね! ぜひ近くお時間をいただきたいです。もちろん、オフレコで」  先方がオフレコというのであれば、純粋な情報交換だろう。潤も気軽に応じた。  その数日後。二月の終わりの金曜日。  森生メディカルは、これまで社内では開発番号「M203」と呼ばれていたフェロモン誘発キット製剤を「サーリオン」という商品名で、またサーリオンの効果を中和させる中和剤を「ゾルフ」という商品名で、厚生労働省に薬事承認申請を行なったと、プレスリリースした。  サーリオンは、ドイツのベンチャー企業から導入した、承認されれば国内で「グランス」に続く二番目となるフェロモン誘発剤。さらに、そのサーリオンの効果を中和する薬剤としてのゾルフ。このようなセットで使われるフェロモン誘発剤は、世界で初めての薬剤だ。  さらに同日。  森生メディカルは、誠心医科大学とメルト製薬が行なっている、ペア・ボンド療法の共同研究開発計画に参加の意思を表明。三者で改めて、共同開発契約を締結しと発表した。それは、同日サーリオンとゾルフの承認申請のプレスリリースの数時間後だった。 ୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧ 潤と片桐のオルムについての会話は2章34話、その後江上が調べてきたオルムの背後関係についてが2章44話に詳しく書いています。復習するというありがたやな方がおられるのであればぜひ!

ともだちにシェアしよう!