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潤が出迎えたのは、現在薬事承認申請中のフェロモン誘発キット製剤サーリオンと中和剤のゾルフのプロダクトマネージャーを務める、藤堂伊織だ。
潤と江上の同期の男で、最近までM203という開発コード番号で呼ばれていたこの薬剤を、潤とともに森生メディカルに導入した、ドイツ駐在時代の戦友であった。現在は大西の直属の部下になる。
年齢も近く、気心が知れた戦友である部下を見て、少し気持ちがほっとしたのも事実。
「待ってたよ、藤堂」
潤がそう出迎えると、藤堂が苦笑する。
「お待たせしてすみません。今日はハードそうなスケジュールですね」
藤堂の言葉に、潤の気持ちが緩んで、思わず本音が口をついて出た。
「そういうわけでもないと思っていたんだけどね」
本当に相変わらずの男だ。潤はそこに好感を持っているのだが、背後で江上が少し不穏な雰囲気を出している。ここも相変わらず。思わず苦笑がもれるが、それは気づかないふりをしよう。
「あは。とりあえず座ろう。
大西さんには同席してもらいたんだけど、いい?」
潤の言葉に大西は承知しました、と頷いた。磯貝は、それでは私はここで、と退室する。
潤は磯貝を見送り、藤堂にソファを勧めた。自分もその斜めの位置に座る。藤堂は大西と潤に囲まれた形だ。
「何やら上司二人に囲まれて、緊張しますね」
そう藤堂は苦笑混じりに呟く。
「全然そんな空気出してないのに、よく言うよ」
潤も即応じた。大西は、部下の潤の前での態度を知るがゆえに、そのやりとりに苦笑気味だ。
しかし、次の潤の一言で場の雰囲気はガラリと変わった。
「実は、藤堂に折り入って頼みたいことがある」
潤は率直に切り出しだ。
「今度の組織改正を機に、大西さんの下にアルファ・オメガ領域専門の医療情報提供支援組織を作ろうと思っている。それを藤堂に率いてほしい」
その言葉に、藤堂は少し驚いたような表情を浮かべた。
「俺にですか?」
「そう。サーリオンとゾルフが佳境を迎えているのは十分分かってる。でも、組織編成から関わってほしい」
潤の妥協のない言葉に、藤堂は反応を見せなかった。それをいいことに、潤はさらに話を続ける。
「医療情報提供支援組織ってなんだって思ってるだろう。
今度の組織改正で大西さんのところはアルファ・オメガ領域に完全にシフトしていく。もちろん専門特化するわけだけど、藤堂に率いて欲しいのは我が社の医薬品情報を提供する組織ではなくて、最新の医学情報やエビデンスに基づいて、ドクターに臨床研究や医薬品の適正使用を提供するような専門集団だ」
「MRとは違うんですね」
「そう。それよりもっと広くて視点が必要になる。我が社の製品だけではなく領域全般の深い知識が求められる。専門MRの次のキャリアとして目指して欲しいポジションだ」
藤堂は頷いた。
「MRよりも、フラットな視点の組織、ということですね。だから営業ではなく、開発に置くのか」
話が早くて助かると思う。
「その通り。構築してほしいのは、現場のドクターが求めるニュートラルな情報を、分かりやすくかつ迅速に届けることができる組織。
数字は背負わない。ドクターの信頼を獲得し、ひいては我が社への信頼を高めるのが目的だ。アルファ・オメガ領域でよりいっそうのプレゼンスを確立するために」
「数字を背負うより大変そうだ」
藤堂が嘆息した。
「そうだね。数字を背負うほうが楽だ。でも、これからは自社製品だけをやっていればいいわけではない。こういう組織は必要だ」
「承知しています」
藤堂は表情を引き締める。
「人選は任せるけど、叶うなら、優秀なオメガを含めた組織にしてほしい」
「オメガ?」
藤堂が意外そうな表情をうかべる。
「そう。うちの会社はオメガの社員が多い。至る所に優秀ばオメガはいる。お前のネットワークとコミュニケーション力でいくらでも探せるだろう。彼らが、専門的な知識を持って本来の能力を発揮させてやってほしい」
どうだろう、引き受けてくれるか、という潤の問いかけに、藤堂が無言で潤を見返す。
そして、深く一礼した。
「承知しました。微力ながら全力を尽力します」
潤は思わず安堵の息を漏らした。
「ありがとう。引き受けてくれて」
藤堂は横の大西に視線を流しながら、苦笑する。
「今回の組織改正で大役を引き受けたうちのボスが横にいて、できないとは言えませんよ」
そのあたり、完全に社長は確信犯でしょう、と藤堂は鋭い視点を見せた。
潤は笑みを浮かべる。
「気づいてた? 隣に大西さんがいてくれたら、お前はイエスって言うしかないからね」
大西を留め置いた潤の意図は完全に見抜かれていた。
しかし、この役割は藤堂しか考えられなかったのだ。ここは信頼できる部下に託したかったんだ、頼むよ、と潤が藤堂を見つめる。藤堂は苦笑して頷いた。
「社長にそこまで言われては。
……相変わらずの人たらしぶりですね」
藤堂の言葉に、大西が大きく頷いてひと言漏らした。
「全くだ」
部下同士でわかり合っているが、潤はそれをあえて無視した。
「すでに一人は見繕ってるんだ。今度引き合わせる」
「優秀なオメガをですか?」
「そう。藤堂には当分プロダクトマネジメントと兼務でやってもらうことになるし、優秀な助手が必要だろうと思って」
潤の言葉に藤堂は呆れる。
「もう完全に社長の手のひらの上だ」
潤は苦笑する。
「あは。僕には藤堂や大西さんを手のひらで転がせるほどの器はないよ」
潤が笑顔で否定するが、藤堂と大西は珍妙な表情を浮かべ、身を寄せ合った。
「本当に自覚がないのでしょうか」
「うむ。そこが社長の計り知れないところだと思っている」
じゃあ、一つ教えていただけますか、と藤堂が潤に向く。
「社長はどうして、ここでオメガ起用にこだわるのですか?」
藤堂の直球の疑問に、潤は特にこだわっている訳ではないけど……と言い訳じみた反応を見せて躊躇った。
「その話、どうしても聞きたい?」
「さしつかえなければ、ぜひ」
遠慮がちに、しかし強い意志の言葉が返ってきた。
潤は腕を組む。どう言ったら理解してもらえるかと少し考えた。
「……正直に言えば、このポジション。オメガでなくても優秀な人材であれば問題はないと判断している。ただ、僕はオメガに担ってほしいと思っているんだ」
経営者としての判断と、潤の個人的な思いのせめぎ合いだった。
「おそらく、この新組織は今後ペア・ボンド療法と深く関わっていくことになるだろうと思う。今後も影響は広がっていく。大きなトピックスだからね。だから多くのオメガに関わってほしいという気持ちがあるんだ。彼らの未来を定めるものだと思うから。決して無関係ではいられないものだ」
潤の言葉に、藤堂は素直に頷いた。
「たしかに。MRとして活動をしていたとしても、ペア・ボンド療法に関われるとは限りませんしね」
「だから優秀なオメガには関わってほしいと思う。
……そして、可能であればこれをオメガのキャリアルートの一つに確立してしまいたい」
これは本当に個人的な思いだよ、と潤は言い添えた。決して強制するつもりはない。
「もちろん、オメガの中には優秀なアルファやベータと渡り合っている将来有望な人材がいる。彼らは優秀で強い。いずれオメガの中から管理職も出てきて、我が社を支える人材になる」
自分などよりずっと有能な人材だ。しかし。そのような能力を持つ人材はごく僅か。本人が有能である上に、身体的に発情期が軽かったり抑制剤が効きやすかったり、理解のある良い番に早くから恵まれていたりするものだ。
有能なオメガがみんなそんな恵まれた環境にいるわけではない。
「彼らとは別に、身体に大きな負担を感じながら仕事をする人もいる。
僕はそういう人に道を用意したい」
「オメガゆえの体質で、純粋に能力を発揮できない人のために、ということですか」
潤は頷いた。振り返ると、潤自身、抑制剤で完璧にフェロモンを抑えて仕事に邁進してきた。それは身近に颯真という優れたドクターがいたから可能だった。しかもそれだって、十数年経てばコントロールが難しくなり、一度は発情期を起こしたほうがいいという診断に至る。
それに、ドイツ駐在時代は、身近に細かくフェロモンをコントロールできる人間がおらず、頼りにしていたのは藤堂の嗅覚だった。
潤自身も、蓋を開ければ発情期が重いタイプだった。颯真や藤堂がいなければ、純粋に能力を発揮することは叶わなかったかもしれない。
「僕は新組織を率いるのは藤堂が適任だと思う」
藤堂は不思議そうな表情を浮かべる。明らかに怪訝に思っている様子だ。
「もちろん、僕は藤堂のコミュニケーション能力の高さとMRとして、そしてプロダクトマネージャーとしての知識と交渉力、実績を考えて適任と判断したんだけど。……そのほかに僕がドイツで苦労しているのを間近で見てきたから、理解があると思ったんだ」
決して楽ではなかったドイツ駐在の時間を共有した。
「藤堂がいなかったら、僕はドイツでドロップアウトしていたかもしれない。
僕は今思えばビジネスシーンで生き抜くのに恵まれた体質ではなかった。第二の性の影響が強いオメガがどんな苦労をするか、理解できるだろ」
藤堂は頷いた。
「たしかに、社長を見てオメガはこんなにも大変なんだと驚いた覚えがあります」
藤堂は口には出さなかったが、やはりそう感じてたのだ。
あの頃潤は、颯真と物理的に離れ、仕事のプレッシャーと慣れない環境にストレスがかかり、フェロモンのコンロールはうまくいっていなかった。
それを間近で見ていたのが藤堂。嗅覚が鋭い彼の指摘で、潤はわずかな体調の変化に気づいてドイツの主治医にかかることができた。颯真には怒られたが、潤は彼に感謝をしていたし、頼っていた部分もある。
「その気持ちが、上にあるのとないのとでは大きく違う。
この部門は、アルファ・オメガ領域の最先端をいくドクターたちと人脈ができるし、社内外の最新の情報に触れることもできる。そして、何より大西さんや藤堂といった、上層部と近いポジションだ。風がどこを向いているのか、そして上が何を考えているのか、アンテナを張ればわかるだろう。そんな環境を用意してやりたい」
おそらく、自分のようなオメガには仕事がしやすい環境になるだろうと思う。
「……なるほど。社長の思いがこもっていますね」
「差別、とも取られかねないけどね」
「それは解釈の問題ですね」
その言葉を、藤堂はさらりと流した。
「いずれにしろ、俺は社長のお考えは理解しました。全力を尽くします」
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潤の戦友、藤堂は2章の26〜27話で既出です。
復習されたいありがたやな方はこちらも是非。
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