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「ありがとう」  潤は藤堂の快諾に胸を撫で下ろした。  正直にいえば、藤堂に全面的に任せておけばこの組織は安心だと思った。 「あ。社長、後は俺に丸投げするつもりでしょう?」  いきなり藤堂が潤の顔を覗き込む。少し茶目っけが含まれた眼差しで、半分冗談じみた口調だ。潤が苦笑する。 「丸投げは言葉が悪いけどなぁ。  でも、任せれば安心と思うくらいに藤堂を信頼してるんだ、僕は」  藤堂は基本的に面倒見が良い。オメガの部下からみれば相談相手にもなってもらえるだろうし、きっと良い上司になると思う。だから組織という器を作ったら、あまり口を挟まない方がいいと思っている。  二人のやりとりを見ていた大西は苦笑気味だ。 「まあまあ。藤堂君ならやってくれるでしょうなあ」  社長の安堵も分かりますな、と呑気に藤堂と潤の間に入る。 「ボスはご存知だったんですね」  藤堂の視線は直接の上司の大西へ。彼は普段、大西をボスと呼んでいるらしい。  大西は藤堂の言葉にあっさりと頷く。 「そりゃあな。社長が相模原に行くっていうから、とうとう藤堂君にはあの話だなと、察しはするさ。特に、今回はお前さんを欲しいって話だから、社長からは最初に話を頂いていたよ」  大西が藤堂を信頼していて重用しているのは重々知っている。今回はそんな部下に仕事を振るのだから、彼に仁義を通すのは当然だ。  でも、社長、と大西は潤に向く。興味深げな表情を浮かべている。 「その、優秀なオメガを登用したいというのは初めて聞きますな」  そうなのだ。大西には医療情報提供支援組織の新設と藤堂の登用については話をして、了解を取っていたが、その組織にあえてオメガを含めたいという話は全くしていなかった。 「うん。この組織の必要性をずっと考えてはいたんだけど、オメガをって強い思いになっだのは、つい最近なんだ。センシティブな問題でもあるし」  正直、藤堂だって抵抗なく受け入れてくれるか、内心では賭けのようなものだった。 「それは、社長が先ほど仰っていた逆差別、ってやつですか」  潤がぽろりと先程漏らした言葉を、藤堂が素早く拾った。  潤も素直に頷く。 「これはアルファやベータに対して、という意味合いと、今頑張ってるオメガに対しても言えることだ」  藤堂がいうように、受け取り方の問題であろうと思う。現在、優秀なアルファやベータと渡り合っているようなオメガが不満をもつとは考えにくいが、東都新聞の時のように、どこから目をつけられるか分からない。 「あと……」  正直、その先を言葉をするのに、躊躇いを覚えた。 「必要なのは明確だし、僕も後悔はしたくないからね」 「後悔?」  二人のシンクロするような問いかけに、潤は頷いた。  それは数日前の三者会談の後。メルト製薬社長の長谷川と話したことがきっかけだった。潤の背中は押されたのだった。  潤と長谷川は、和泉との話を終えて、少し雑談をする時間を持てた。長谷川から少し話ませんかと誘われ、院内のカフェに場所を移したのだ。  その時、話題に上がったのがメルト製薬の医療情報提供支援組織の取り組みだった。数日前に業界紙に取り上げられており、少し話を聞いてみたかった。  潤が藤堂に託したような、最新の医学情報を迅速にドクター達に提供する専門集団は、臨床研究や治療の進化が目まぐるしい治療領域などを中心に、数年前から組織化が進んでおり、すでに領域限定でスタートしている企業も多い。  そのなかで、メルト製薬も今年の初めに始動したという紹介記事を、偶然目にしていたのだ。  特に潤の目を惹いたのが、その組織を率いているのが自分よりいくつか年上の、薬剤師の元MRで、オメガであるという部分だった。  メルト製薬は同じことを考えている、と潤は察知した。  いや、潤はオメガの登用を、考えてはいたものの躊躇いもあって未だに決断していなかった。そこを先んじて突かれた気分になったのだ。  長谷川に対し機会があればその意図を聞きたいと思っていた。本来なら一企業の社長に直接聞く話ではないし、はぐらかされるかもしれないが。 「森生社長があの記事をご存知とは思いませんでした」  長谷川は苦笑した。 「長谷川社長も私のインタビュー記事をすぐにご指摘されたので、お互いに意識し合っている会社なのだと実感します」  そう言ってから、潤は素直に言う。 「御社はこの領域でリーディングカンパニーであり、私自身はまだまだ若輩です。今後も長谷川社長にいろいろとお話を伺えれば嬉しいです」  潤が見せる素直な敬意を、長谷川は柔和な表情で受け止めた。 「森生社長はすでに立派に会社を率いておられます。ご謙遜なさることはない。  ただ、あの組織については、私にも少し苦い思い入れがありまして。よかったら聞いていただけますか」  長谷川の言葉は意外なものだった。  おそらく負担に感じさせないような彼の配慮なのだろうが、「苦い思い入れ」という言葉に惹かれ、潤は頷いたのだった。 「仕方がない、と思ってももう時間は戻せない。後悔しているのだと思います」  長谷川は少しずつ、考えて言葉を選ぶ。  話は、長谷川の社長就任の背景から始まった。 「私が社長に就任したのは、二十年ほど前です。その頃、医薬品業界は世界的に大規模なM&Aが進んでいまして、企業単位の規模の拡大が求められていました。我が社は日本市場では老舗外資ととられていますが、決してグローバルファーマとして規模が大きいわけではない。これに飲み込まれずに、いかにプレゼンスを発揮するか、そんなことが求められて、本社からの落下傘で日本法人の社長に就任しました」  驚いたことに、長谷川はもともと米メルトの本社で採用されキャリアを積んできた人物だった。もともと優秀な人物なのだ。本人にとっても日本法人の社長に抜擢されたのは意外だったという。 「正直、そのようなミッションを背負ってきて、周りは敵だらけでした。私としては最初の三年は、記憶が曖昧なくらいがむしゃらでした」  アメリカに住んでいた家族とも離れての孤軍奮闘で、家族が移住してくるまでは仕事漬けだったという。  長谷川は自嘲的な笑みを浮かべる。 「多分、そのなかで自分がオメガであることを忘れてしまったのでしょうね。  アルファ・オメガ領域で事業展開をしていながら、オメガの社員への配慮は二の次で、それで退職が相次ぐ事態になったんです。  その時なって、ようやく社内に彼らにとって働きにくい雰囲気が醸造されていることに気がつきましました」  これは、長谷川の若い頃の失敗の話だと潤も気づく。それをあえて潤にしようとしているのだ。 「性別問わず有能な社員が能力を発揮できるポジションと環境を用意するのは、経営サイドの仕事です。そんな簡単な事実に、ようやく気づいて対策に乗り出すとができるようになったのが数年前。少しずつ社内の空気も変わってきた。だから、あのポジションに有能なオメガの社員を就けることができたのです」  本社のミッションを優先するが故に、また敵だらけの社内で実績を上げるために奔走しているうちに、同じオメガの社員が置かれている状況を見落としていたという長谷川の後悔は、潤にも十分響くものがあった。  いや、そもそもこれまでオメガという第二の性から目を逸らし続けてきた潤にとって、知らず知らずのうちに、かつてのメルト製薬のような雰囲気を作り出していたかもしれないと思わず己を顧みた。  だが、今は経営者として能力のあるオメガに道を作りたいという気持ちが少なからずある。長谷川のように苦い後悔はしたくはないという気持ちもあった。 「社長?」  藤堂の呼びかけで、潤は我に返る。 「あ、ごめん。少し考え事をしていた」 「珍しいですな」  大西のツッコミに潤の笑みももれる。 「後悔したくはないっていうのは、このチャンスがいつまた巡ってくるか分からないっていう意味でだよ。  どんな社員でも能力を最大限に発揮できる環境を整えるのが、経営サイドの役割だ。もしこのチャンスを見送ったら、次に同じような状況がやってくるとは限らない。  僕だって、いつまでこの会社で社長をやっていられるかは分からない。好機は逃したくない」  社長という立場は、いざという時に責任をとるのが仕事だ。潤は社長就任時からいつもそのような緊張感を持っているが、目の前の二人にとっては少し衝撃だった様子。 「いやマジでそれは勘弁して」  勘弁してって……と潤は藤堂のぽろりと出た呟きに苦笑する。 「今社長にいなくなられるなんて悪夢でしかないんで。ホントに社員一同困るんで、それ冗談でもやめてほしいですわ」 「冗談で言ってるわけではないんだけど……」 「なおのことです」  藤堂の被せるような言葉に、大西も同調する。 「そうですぞ。ペア・ボンド療法もこれからですし、こんな面倒な仕事を下に押し付けておいて、さっさと退任とか……悪夢でしかないですからな」  藤堂だけでなく、意外にも大西にも窘められる。ただ、そこまで自分が必要とされていると思うと慰められもする。 「あは。ごめん。一般論なんだけど、もちろん僕も努力はしてるよ」  潤はそう弁解した。  しかし、トップはいつ辞めるかは分からないのは事実だ。責任をとる時もあるし、取らねばならないこともある。  道を切り開く人たちをの支えとなるため、掴めるチャンスは逃したくない。

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