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 相模原で藤堂と話をつけてから、磯貝と大西に見送られて相模原を出たのが、すでに十七時をすぎていた。あいにく夕方の渋滞に巻き込まれてしまい、江上と一緒に品川の本社に戻ってきた時は、ゆうに定時を過ぎてしまっていた。  そのまま、上層階の社長室に戻り、不在にしていて溜まっていた仕事を、緊急のものだけとりあえず捌いて帰宅の途に着いたのは、すでに二十一時をすぎていた。 「相変わらず、藤堂は好き勝手なことを言いますね」  江上はそう言って、終始ぷんすかしていた。きっと藤堂が同期会への出席を強引に決めてしまっていたのが我慢ならないのだろう。そんなに嫌がるものでもないだろうと、潤は自分のことを棚に上げて内心で苦笑していた。  藤堂としては、潤が出席ならば当然江上も出席であるに違いないと踏んでいただけのようにも思う。ただそれを言ってもなんの慰めにもならないから、潤は黙っていた。きっといつも彼に先手を打たれ、一枚上であるのが江上にとっては不本意でならないのだろう。  でも、二人が協力しあえばいい仕事ができると思うのだが。 「江上と藤堂は揃って優秀なんだから、二人で組めば我が社の戦力になると思うんだけど、相性かなあ……」  潤のそんな呟きに、江上は心底嫌そうな表情で対応する。 「やめてください」  本当に嫌なのだろう。潤は肩をすくめた。  帰宅すると、室内の灯りは消えていて人の気配がしないのに、玄関に革靴があり颯真がいる形跡があった。  室内はしんとしている。 「ただいま」  颯真? と呼びかけてみるがリビングは真っ暗で無人だ。  探してみれば、颯真は自室で寝ていた。この時間であれば、いつもの颯真ならリビングで寛いでいたり家事をこなしたりと、そんな用事に当てられている時間なのだが、珍しいこともあるものだと思う。  今日は日勤シフトだったはず。体調が悪いのかなと心配になる。  潤は颯真を起こさないように静かに室内に入る。廊下から漏れるわずかな光で確認すると、ベッドから静かな寝息が聞こえてくる。膝をついて、そっと枕元を伺うと、気配に気がついたのだろう、颯真が僅かに瞳を開けた。 「……潤?」  眠そうではあるが、いつものように声がしっかりしていて、すごぶる体調が悪いわけでもなさそうとだと少し安堵した。 「大丈夫? 具合でも悪い?」  潤が気遣うと、颯真の瞳が少し眩しげに潤を見上げてきた。 「いや、平気。ちょっと疲れて……。お前が帰ってくるまでって思ってたんだけど」  そうして身を起こそうとする颯真を潤は押し留める。ちょっと疲れて寝るなんて、これまで颯真の行動では記憶にない。  激しく心配になる。 「いや、寝ててよ」  そして、颯真の額に手を添える。熱はあまりなさそうだけど……と思う。 「風邪かな?」 「いや、平気。おそらく疲れだと思う」  潤の呟きを颯真が否定する。颯真がそのように言うのであれば、そうなのだろう。自分のこととはいえ、その診断に間違いはなさそうだし。 「どうする? 薬飲んでおく? っていうか、その前にご飯食べた?」  潤の畳みかけるような問いかけに颯真は苦笑する。 「平気」 「本当に?」 「潤、俺は医者だ」  颯真が身を起こす。  でも、やはり灯りをつけて見ると、顔色が少し悪いように思える。潤は、ベッドサイドに腰かける。  颯真が疲れだというのであれば、そうなのだろう。 「仕事忙しそうだもんね」  今朝も少し早く出ると言って、潤を起こしてから朝六時に家を出て行った。遅くなると言っていたから、体調が悪くて帰ってきたのだろう。 「ちょっと立て込んでてな。……でも、社長ほどじゃない」  今日は相模原の研究所まで行ってきたことを、おそらくこの片割れは知っているのだろう。 「もう……!」    すると颯真が手を伸ばし、温かい手が潤の頬に触れる。流されたその視線に、潤はどきりとした。 「仕事から帰ってきた直後は、凛々しさが残ってるな」 「は?」 「自覚ない?」 「うーん?」 「帰ってきた直後のスーツ姿の潤はストイックだ。社長業ってのは忙しいし、ずっと集中力を切らせないんだろうな。そのきりっとした雰囲気が残ってる。  スーツを脱ぐとかわいい弟で、愛おしい番になるのに、今の潤は格好良くて、見惚れる」  颯真の躊躇いのない絶賛に、潤は照れてしまう。  文句なくかっこいい颯真にそう言われると、少し居心地が悪い。 「潤」  颯真がくいっと人差し指で招き寄せる。 「ん?」  すると颯真が、唇にキスをした。 「早く風呂入ってきて。添い寝してくれる?」  颯真のリクエストに潤はさすがに躊躇う。 「体調悪い時はちゃんと一人で寝たほうがいいよ。僕がいると颯真も休まらないよ」  本音は颯真の近くにいたい。でも、きちんと休んで欲しいのも本音なのだ。颯真が首を横に振る。 「そんなことないから。潤に癒されたい」  その目に、言葉に、表情に、潤は胸を掴まれた。  潤は小さく頷いてから、ちょっと待っててと言って部屋を出た。  自室でスーツを脱いで、そのまま浴室へ。  潤の胸は高鳴り、ドキドキ言っている。  だって、……あんなふうに颯真に言われたら。心臓が止まるかと思った。  浴室でシャワーを浴び、潤はごしごしと身体と髪を洗い、疾風のごとくシャワーを浴びる。  早く颯真のところに戻りたくて、気が逸った。  身体を上から下までしっかり磨いて、温まる感じはなく行水で、それでも髪はしっかり乾かして、潤はパジャマ姿で再び颯真の部屋に姿を表す。 「おまたせ!」  さほどの時間をかけずに姿を表したことに、片割れは少し驚いた表情を浮かべてから、苦笑した。 「本当に早かったな」 「頑張った」 「まさに烏の行水だな。ちゃんと身体は洗った?」  潤は颯真の問いかけに驚く。 「洗ったよ!」 「髪も乾かしたか? 風邪ひくぞ」  そう言われると思ったからきちんと念入りに乾かした。 「大丈夫!」  そう宣言すると、颯真がベッドにスペースを作ってくれて、潤を招き入れてくれる。二人で寝ることが多くなって、彼の部屋のベッドを先日、セミダブルからダブルに買い替えた。  潤の部屋にもベッドはあるが。こちらはもっぱら潤が一人で寝ることが多いため、セミタブルのままだ。  潤は颯真のベッドに入り込んだが、颯真に抱き寄せられそうになり、ここにきた理由を思い出し、慌てて、違う違うと颯真を抱き寄せた。  いつもそうされて安心するため、颯真を胸に抱き寄せる。すると颯真も、安堵したように、深い息を吐いた。  そして潤の腰に腕を回した。 「今日は、変なこと禁止だからね」  そう宣言すると、颯真は「いつも変なことはしてないけどわかった」と頷く。 「……癒されるなあ」  そう本音を吐露する颯真に、否応なく愛おしさが込み上げてくる。再びドキドキしてきた。 「最近、颯真忙しいから。顔色も良くないから心配だった」  寝起きから顔色が優れないとはどれだけ疲れているのだろうと心配したのも一度や二度ではない。少しくらい自分の身体を優先してほしいと思う。  おそらく、気が全く休まらないままここまで来てしまったのだろうと思う。  アルファはオメガやベータと比べても一般的に身体が恵まれていて、並外れた基礎体力もあるとされる。しかし、いくらアルファといえど、激務が続けば身体も根をあげるだろう。  それは、颯真が今の職場で重要なポジションにいるということだろうが、もう少し自分自身を労って欲しいとも思う。 「この間、和泉先生にお会いしたときに言われた。横浜の病院は颯真がいるから安心してるって。信頼されてるね」  自分の片割れは、番は、こんなに優秀な人から厚い信頼を得ているのだと誇らしくなった。颯真は、潤の胸の中で頷いた。 「うん……。あの人は理解者だ」 「理解者?」  颯真が潤を抱き寄せる。 「感覚が似てるんだ。俺にとっては先輩ドクターだけど、多分あの人もそう感じてると思う。見ている方向も近いと思う」  聞けば、ペア・ボンド療法は、もともと颯真と和泉、そして当時のメルト製薬のMRの三者が中心になって、メルト製薬のフェロモン誘発剤「グランス」の海外の治験データを検討したところから始まっているとのこと。まだグランスが米国で承認される以前のことだ。  健康なアルファを巻き込み、かなりの精神的な苦痛や葛藤を伴わせる治験ということもあって、学内の倫理委員会を通すにも多くの苦労があったのだという。それを一緒に乗り越えたのが和泉だった。 「どんなに否定されてもあの人は諦めない。自分の中の方向性が明確なんだ。ああ言う人は信用できる」  強い意志を持つ和泉と信念を持つ颯真。二人がペア・ボンド療法の可能性に気がついたときから、誠心医科大学病院でペア・ボンド療法の臨床試験が行われることになるのは必然だったのだろう。 「分院と本院で職場も離れているのに、なんだかんだとお世話になってる」  ペア・ボンド療法の件ではもちろん、さまざまなことを相談しているとのこと。頻繁に会ってもいるらしい。 「颯真も信頼してるね」  医師としてそういう信頼できる人物に巡り会えたのは、幸せなのだろうなと思う。  そういえば、颯真は以前、自分が主治医を降りるならば、和泉を推したいと言っていた。幼少期に辛い時期を支えてもらった森生家のホームドクターである天野を差し置いての推薦だった。その信頼度合いもわかるというもの。 「うん。ドクターとしても人としても……」  このペア・ボンド療法に、森生メディカルが参加できることになったのは喜ばしいことだと改めて潤は思う。  この二人の有能な医師の仕事を、間近で見られる立場はなかなかない。それは潤自身だけでなく、社内のスタッフにとっても大きな刺激になり学ぶことも多いだろう。    颯真が急激に睡魔に呑まれかけている。潤は彼を抱き寄せたまま、背中をとんとんとさする。 「ゆっくり休んで、疲れをとってね……」  愛おしくて大事にしたい颯真。 「おやすみ」  潤は颯真の額にキスを落として、灯りを消したのだった。

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