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 颯真の言葉で潤もピンとくる。思わず思い浮かべるのは、幼い頃の自分たちの姿。 「子供の頃のこと思い出した?」  潤の一言に、颯真が頷く。 「うん。  潤が熱を出すと、俺に添い寝してほしいって。その逆もあったなって」  二人とも子供時代は健康優良児だったが、それでも風邪を拾う頻度は潤の方が高かったかもしれない。   潤が熱を出すと、母の茗子は部屋を立ち入り禁止にしたが、それをすり抜けては颯真が入り込んできた。看病してくれたのだ。 「母さんが驚くんだよね。朝になって颯真が布団の中にいて。で、怒られるの。風邪移っても知らないわよって」 「移った記憶ないんだけどな」  涼しい顔で颯真が言う。潤も颯真に風邪を移した記憶はあまりない。しかし。 「僕は、颯真から結構もらったよ」  その逆はあった。 「だなー。俺が風邪をひいて、潤が看病してくれたらケロっと治ったのに、翌日お前が熱を出してたりしてな」 「そういうところ。颯真は昔から丈夫なんだよね」  泳いでたからかな、と颯真は医師らしからぬ適当な分析をする。まあ、有酸素運動は免疫機能を高めるともいうが……。 「いや、それ僕もしてたし……」  小学校に上がる前から、二人でスイミングスクールには通っていた。 「でも、お前は中学入るときに辞めたじゃん」 「それは颯真がやめておけって言ったんでしょー」  潤が不満気に声を荒げる。今思い出しても理不尽だよ、と潤は思う。  颯真は小学校から中学校に上がってからも、学校の水泳部に所属し、県大会などでは常連選手だった。  高校は医学部進学に強い外部校に進学し、しかも飛び級の最短で卒業したため水泳は辞めたのだが、当時その進路変更を顧問に考え直すように説得されるほど、有望な選手だった。  一方、潤は中学入学を機に、当時水泳と並行して習っていた弓道に本腰を入れることになり、結局、中高六年にわたり弓道に打ち込んだ。  最終的には部長兼主将としてみんなを引っ張る立場になり充実した部活動を送ることができたが、そんな学生生活を送ることになったきっかけは、颯真が潤の水泳部の入部に難色を示したからだ。  もともと潤は、颯真と一緒に水泳部に入部するつもりだった。しかし颯真が、潤は弓道に打ち込んだ方がいいと、半ば強引に弓道部の入部を勧めた。 「二百メートルクロールで勝負して勝ったら、水泳部に入部を許可するなんて、一体どんな入部試験だよ。めちゃくちゃハードル高い条件じゃん。負けるしさー」  潤のぼやきに颯真は苦笑する。 「勝算ないと意味ないだろ。とにかく俺は、お前に水泳をやめて欲しかったんだ」  穏やかな言葉の中に強い意志を、潤は読み取る。あの頃の自分は、少しずつ大きな競技会に出られるようになってきていて、泳ぐことが楽しかった。  だから颯真に「辞めておけ」と言われたときは悔しくて悲しくて、納得できなかった。やはり、颯真は自分と一緒に泳ぐのが嫌なのかとぐるぐる考えた。  遠い過去になっていた当時の記憶が、鮮明に蘇ってくる。  お前は弓道部に入れと言われて、どんなに説得しても颯真は折れなくて、その意志の強さにショックを受けた。  その時颯真は、中学生になるのだから、それぞれの適性にあったものを選ぶべきだと言ったのだ。自分は水泳、潤は弓道の方が筋がいいと。  それでも、潤は納得できなくて食い下がったところ、颯真から二百メートルクロール勝負を持ちかけられたのだ。  結果は惨敗で、潤は弓道部の入部届をその場で泣きながら書かされた。 「そんなに、……僕と一緒に泳ぐの嫌だった?」  確か、当時もそんなことを颯真に聞いた気がする。  今更「嫌だった」と答えられても、さほどにショックは大きくないと思うが、恐る恐る聞いてみてしまう。しかし、颯真の返事は意外な方向。 「お前と泳ぐのは楽しかったからいいんだ。  でも、俺は、お前の水着姿を周囲に見せたくなかった」 「……は?」 「単なる独占欲だよ。お前の裸を晒したくないっていう」  たしかに競泳は露出の高い競技だが、颯真がそんなことを考えていたとは全く予想外で、潤はあっけにとられた。 「ふふ……っ」  思わず潤の口から笑みが溢れる。 「そんな理由だったんだ」  潤は身を丸めてくすくすと笑った。もう二十年近く昔の話だが、聞いて良かったと思う。  颯真が、オメガという意識が全くない頃から弟を「自分の番」として扱ってきたのを、潤は改めて実感したのだ。  長い間、颯真に対して、そのような存在としてあり続けた自分というのを実感して、潤はどこか満たされた思いになった。現金だと言われるかもしれないが、気持ちが通じた今だから感じる、意中のアルファを長く独占できていた満足感かもしれない。  颯真はバツの悪そうな表情を浮かべる。 「さて、雑談はここまでだ。  診察もおしまい。次回は、もう発情期の後かな。俺が診てるし、頻繁に来て貰わなくて大丈夫だから。発情期終わってから、またフェロモンコントロールについては考えよう」  今回の発情期はやむを得ないが、番うまではこれまでのようにフェロモン抑制剤で押さえていくのか、それとも発情期を越えていくコントロールに変えるのか。  颯真はどちらを選んでもいいという。 「潤が選んでいいよ。仕事に支障のない形で進めていこうな」    診察室を出て、総合受付で会計を済ませると、再び颯真が待つ診察室に戻る。「戻ってきてほしい」と言われていたのだ。  そもそも颯真とは一緒に帰るため、彼の仕事が終わるのを待つつもりだったので問題はない。  近くの商業施設で買い物をするか、院内のカフェで時間を潰そうと思っていた。  潤が会計から戻ると、颯真は診察室の片付けをしていて、そのまま部屋を出る。    促されてやって来たのは、彼のオフィス。以前、診察室で寝入ってしまった潤を颯真が運んでくれた場所だ。実は、これまであまり足を踏み入れたことがない場所である。  なんでこの場所に連れてこられたのか。 「颯真?」 「会わせたい人がいるんだ」  そう言ってから、颯真はオフィスのドアをノックする。すると、中から声が聞こえた。 「誰?」  驚く潤に、颯真が少し悪戯じみたような表情を浮かべた。 「え」  颯真がドアを開くと、目の前のソファに腰をかけていた人物が立ち上がる。  潤は目を見張った。  人の良さそうな雰囲気の、爽やかでやや癖がない、気持ちが良い、同年代の青年。  その場にいたのは、メトロポリタンテレビのディレクター片桐要であった。

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